2010年4月30日金曜日

自閉症の我が子のためにコミュニケーションシステムをつくった父親


自閉症の息子のために、絵の組み合わせによってコミュニケーションを支援するシステムをつくった父親の話し。残念ながら動画の中には、実際に自閉症時が使っている映像がないので、効果のほどはわからない。どうなんでしょうか。
こちらから買うことができる。一番安いシステムで20万円くらいから。

(via gizmode)

私の「情報感動世界」

  • 大人になってから、仕事で「感動」したことってありますか?
美大生と話していると、ときどき変な質問をされるので面白い。
みなさんなら、どう答えるでしょうか?

私はエンジニアなので、よく企業パンフレットに書いてあるような「お客様からアリガトウと言われたときがシアワセです」といった経験が無い。
IT系の仕事って、そもそも怒鳴られることはあっても、有難がられることなんて無いんじゃないだろうか。

個人的に感動する瞬間があるとすれば、「コンパイルが通ったとき」だろうか。
(コンパイラを知らない方へ:「プログラム」を書くことだと思ってください)
複雑なシステムが何億ステップもの処理をこなし、無事にカーソルが戻ってきた瞬間、あれは幸せだ。

あとは、、、
データセンターに入ったときに、自分達の作ったシステムがちゃんと動いていて、LEDの点滅の先に流れる情報の世界をみたとき。

かな。
とてもじゃないけど、デザイナーには説明できない世界だ。

つくづく思うこと。
情報に色は無い。音も立てない。ただただ無機質な仕掛けだけが、そこにある。
それを「美しい」という言葉で表現することもできるけれど、「美術」のいうところの美しさとは全く反対のものだと思う。

このあたりで卑怯な言葉に、いわゆる「機能美」というのがある。これは、
  • 機能性の高いものの中には、美術的な鑑賞に値する要素があること
を示している言葉だから、私は嫌いだ。「機能」が「美術」に隷属していることを暗に示しているからだ。デザイナーとエンジニアが使ったときでは、隷属関係が逆転していて面白い。

あれは機能美ではない。
コンパイルしたときの感動は、どう言えばいいのだろうか。
仕組みそのもの、機構・構造に対する愛の感情に相当する言葉は無い。あえて言うなら、「情報感動世界」だろうか。

2010年4月28日水曜日

ストイックなまでの生活

http://www.okcmoa.com/~okcmoa/files/u1/Bernhard_1989.009.jpg

  • カラダの輪郭とは、おぼろげなもの。
  • 抱っこされたり、撫でたり、服を着ることで確認できる。
(鷲田清一)

生活も、そういうものじゃないだろうか、と思った。

そもそも文化とか、倫理とか、およそ社会で定義されている行動規範のほとんどは、われわれが思っているほど意味はない。日本人の行動が外人からみると奇異なものに写るのも、そのせいである。ただ単に、文化を守って貫くことだけに意味があり、文化そのものには意味が無いのだ。だから逆に、文化とか、倫理とか、社会正義を振りかざす演説家がいたとしたら、そいつはアヤシイ。
さて日本の伝統というのは、文化の記号的側面に頼る部分が強いのだろうか。茶とか、独特の正義感とか、旧来の日本家屋のストイックなまでの生活をみていると、そう感じる。だいたい正座するのは痛いし寒いではないか。

もちろん、だからといって、全てに対して無法で、無防備で、無関心であることが自由なのか?というと、そんなわけはない。全てが快適でぬるま湯にひたっていると、自分のよりどころがなくなってしまう感じがする。

  • 文化の輪郭とは、おぼろげなもの。
  • インテリアをデザインしたり、学校や会社に行ったり、服を着ることで確認できる。

手順(プロシージャ)としての美意識というのが、そこにはあるのでしょうか。
とある職人さんの手仕事を見ていて、そんなことを思いだしました。

2010年4月27日火曜日

麦わら帽子のイエス・キリスト

Yr(イア)先生はご近所さんだ。
高校時代の木工の先生である。

休日に家でごろごろしていると、ママチャリに麦わら帽子の出で立ちでセッセとやってきて、エホバの証人の話しをしていく。
「私は理科系の大学を出てしまい、すっかり無神論者になってしまいました」といっても、
「いやいや誰にでも欠点はありますよ」とやさしく宥めてくれるのである。
Yr先生は物知りで、特に木について色々教えてもらった。
良い先生だし、別に高価な壺を買わされるわけでもないので、なるべく足を止めて話をするようにしている。なんせ私の家と会社が近いもので、通勤途中や会社帰りとかにも、Yr先生にしょっちゅう出くわすのである。我が家と、Yr先生の家と、高校とは、きれいな正三角形をなしている。私はこの小さな正三角形の中でほぼほぼ、これまでの33年の人生を歩んできたといって良い。

ついでにいうとYr先生の家は、木工作家らしく手作りのログハウスだ。ログハウスの外壁は、油絵の具ですっかりカラフルに塗られていて、一つの絵画を見ている気分になる。しかもその絵画は、まるで東洋とも西洋ともわからぬ不思議なものになっている。というのも庭先には、古い武蔵野を標榜するかのように、とてつもなく大きな松の木が生えているのだ。このあたりは江戸時代、壮大なる松林だったようで、そのころの名残なのだとか。

そういえばジブリ美術館の周りにも、不釣り合いなほど立派な松林があるではないか。パステルカラーの漆喰で塗られてメルヘンチックなファサードを持つジブリ美術館は、正三角形の真ん中、すなわち重心のところにある。あそこは私の通勤路になっていて、開館に合わせて中国人と韓国人の観光客が行列をなしている脇を、これまた不釣り合いなスーツ姿の自転車ですり抜けながら通勤するのである。

ああ、不釣り合いなのはジブリの方かもしれない。屋上に突っ立っている作り物の巨神兵が見ている先には、いつもひときわ立派な松の木が聳えているではないか。毎日みているから、いつのまにかその滑稽さに鈍感になっていた。松の木が生えたラピュタなんて、あるだろうか?
そういえば4月1日の朝に、汚らしいチェックのネルシャツを着た出っ腹のオッサンが巨神兵の横によじ登って、右手に持った金ピカの美しい鐘を何度も何度も気が狂ったように鳴らしていた。あれは自分が天使か創造主だと思い込んだ誇大妄想のアニメオタクだと思ったのだけれど、今考えれば、宮崎駿その人だったのかもしれない。

松の木と、駿と、金ピカの鐘。
松の木と、駿と、金ピカの鐘。
松の木と、駿と、金ピカの鐘。

閑静な住宅街の道ばたで、先生はいつものように黙々と説教を始めた。
「石垣さん、イエス・キリストがどうして悲惨な死を遂げたか知っていますか?」
「残酷なストーリーの方が、布教する上で都合が良かったんだと思います」
思わず口から理系的な正解をこぼしそうになりながら、先生への敬意から「いいえ、知りません」とだけ答えた。

「イエス・キリストはね、石垣さんの為に死んだんですよ!」

麦わらの初老がスーツ姿の教え子に、なにやらただならぬ事を説教している。近隣住民の空気が凍り付き、おだやかな春の住宅街に、「石垣さんの為に死んだ!」の声が何度もこだましたような気がした。小さな正三角形の面積はその吹き出しでいっぱいになってしまい、もはや逃げ場を失ったかのように思われた。
先生は、その一撃が「決まった」のを悟ると、ふだんあまり見せない得意げな表情をして、いかにしてこの世の終末が恐ろしいものであり、そのための精神的な準備をしなくてはならないかを蕩々と説くのであった。

私はその、自分が置かれたあまりにも滑稽な状況から抜け出したくなった。そして金ピカの鐘を持ってジブリ美術館のてっぺんに登り、松の木に向かって思い切り鐘を鳴らしてみたくなったのである。

2010年4月26日月曜日

奴隷と主人について。


ずいぶん昔に、奴隷というものは居なくなってしまったわけだけれども。破壊された奴隷制度というのは、粉々に砕け散った無数のカケラとなり、我々の心の中に小さく深く突き刺さっているようだ。
何の話しかというと、労働の話しなのです。

デザイン好きがなるべき職業
これは、愚問だろうか?コンピュータ好きがなるべき職業は、コンピュータエンジニアである。
では、私みたいに「デザインが大好き」な人たちはどうしたら良いのであろうか?デザイン好きが全員デザイナーになろうとしたら、たまったもんじゃない。なぜかというと、この国で、独立してデザイナーとして生計を立てられている人というのは、たったの2万人かそこらしか居ないからだ。これは、例えば国内の弁護士の数に等しい。弁護士は大変な参入障壁と特権が与えられているが、デザイナーにはどちらもない。だからこそ、デザイナーは日夜、野性味溢れる熾烈な過当競争にさらされている。

これから就職活動をする人に
何が言いたいのかというと、「デザイン好きはデザイナーになるべきではない」という事を言いたい。本当にデザインが好きで、一生飽きることの無い幸せなデザインライフを送りたいのであれば、

  • デザインを発注する側の立場になる
ことを是非考えてみたい。デザインというのはサービス労働だから、基本的に主人(発注側)と奴隷(デザイナー)とのプレイによって成り立つ。デザイナーとは、主人あってこその職業なのである。主人の居ないデザイナー、すなわち奴隷ではないデザイナーというのは存在しない。これはデザインに限らず、営業とか、接客とか、サービスや対人関係をなす様々な労働に言えると思う。

奴隷と主人
会社組織の主人である取締役会は、例えば執行役員という奴隷を使う。執行役員は部長とか幹部を奴隷として使い、彼らは課長や係長などの中間管理職を奴隷として持つ。中間管理職は平社員という奴隷を操り、平社員は外注先を奴隷として使う。彼らが顧客としてある会社の商品や株を買ったとき、彼らはその会社組織の主人になることができる。こうして、主人と奴隷の関係性はグルグルと循環している気がする。
現代の奴隷制は、もちろん本当の奴隷制ではないから、奴隷と主人は、お互いの人間性を認め合っている感じだ。社員はカリスマ社長を憎みながらもどこか尊敬しているし、いつでも嫌われ役の臭いオッサン中間管理職であっても、周囲は何とか打ち解けようと必死である。

最近、その関係にねじれが生じて、お互いに尊敬しあえない奴隷制、というのが発露している気がする。例えばクレイマーは、頭の痛い問題だ。消費者(奴隷)は、主人(製造元)から与えられる恩恵以上の物を要求するし、主人の人間性を認めていない。逆もまたしかりで、主人はクレイマーなんて消えて無くなれば良いと思っている。
さてデザイナーはどうだろうか。デザインに何かを期待するクライアントが、このところめっきり減っている。ひょっとしてデザイナーとは、製品に味付けをするだけの交換可能な部品だと思われていないだろうか。クライアントはデザイナーを機械部品だと思い、デザイナーはクライアントを「デザインのわからない馬鹿者」扱いしている。

デザインへの理解があり、新しいデザインに挑戦的で、やりがいのある仕事を与えてくれて、ひいては日本のデザイン界の躍進に貢献してくれるような理想的主人としての人材、すなわち「デザイン好きの発注主」が増えてくれる事を祈って、もう一度言いたい。
  • デザインが好きな優秀な人は、どんどんデザインを発注する側の立場になってください。

2010年4月23日金曜日

日本のデザインと創造性について、ヨーロッパとの比較。

クイズ。
以下のデザインに関するエッセイは、誰が書いた何というものでしょうか?
(ヒント:中学生でも知っている有名な自伝です)

  • 日本は多くの人々がそう思っているように、自分の文化にヨーロッパの技術をつけ加えたのではなく、ヨーロッパの科学と技術が日本の特性によって装飾されたのだ。
  • 実際生活の基礎は、たとえば、日本文化が-内面的な区別なのだから外観では余計にヨーロッパ人の目にはいってくるから-生活の色彩を限定しているにしても、もはや特に日本的な文化ではないのであった。
  • ただ表面的な包装だけが、徐々に日本人の存在様式に調和させられたに過ぎない。
  • ある民族が、文化を他人種から本質的な基礎材料として、うけとり、同化し、加工しても、それから先、外からの影響が絶えてしまうと、またしても硬化するということが確実であるとすれば、このような人種は、おそらく「文化支持的」と呼ばれうるが、けっして「文化創造的」と呼ばれることはできない。
答え。
アドルフ・ヒトラー「我が闘争」。

こんな人が現代日本のデザインについて的確な指摘をしているかと思うと、複雑な気分にもなる。
日本の、国際社会に対する「文化創造的」なデザインというものは、例えば、同じくドイツ出身でヒトラーに追い出されたブルーノ・タウトの桂離宮礼賛によって見いだされたとされているけれども。タウトは、かつての箒屋や金物屋の陳列が「民衆芸術のアンサンブル」だと絶賛したというけれど、京都清水寺あたりのお土産街でキーホルダーやメダルを売っている様子には、もはや「民衆芸術」なんて見る影もない。日本の庶民による、デザインの洗練に対する監視の目というものは、よっぽど目をこらさない限り、もはや微塵も見当たらない。さて、タウトとヒトラーという二元論、「文化支持的」と「文化創造的」という二元論で日本のデザインを見た場合、どちらが現代的な視点にたっていたと言えるだろうか。

ついでに言うと、日本人の好奇心や、変化を好む特性につけこんで、まずはアメリカ「風の」価値観、次にヨーロッパ「風の」価値観を培養し、低俗な商業主義の視覚競争によって、日本の街や商店を見るも無惨な状態にしたのは誰か。



2010年4月22日木曜日

目が見えない人が「見える」ようになるスマートフォン用アプリ



百聞は一見にしかず、まずはデモムービーをどうぞ。まだベータ版のようだけど、良く動いています。一昨年あたりから公開しだしているらしい。アイディア自体はかなり昔からどこにでもあったもの。ちゃんと作っているのが偉いと思いました。
「タッチパネルは視覚障害者には不向き」と思っていたけれど、例えばiPhoneはなかなか(視覚障害者にも)使いやすいと聞く。物は使いよう、ということか。このアプリでも、大分工夫しているらしい(映像後半)。既成観念にしばられないようにしないとイノベーションは生まれませんね。

アメリカ退役軍人省、老齢省、国立視力研究所などからスポンサーシップを受けて少人数で開発しているらしい。こういうところにちゃんとお金が流れる仕組みがあるのは、アメリカならでは。日本でこういうことをやろうとしても、まともに売れないだとか、CSRにしては効果が小さいといった理由から大企業では中々手が付けにくい。結局のところ、一部の好き者社長が居る中小企業に利益度外視でまかせるか、大学の研究レベルにとどめる(ただし、まともに動かない)しかない状態です。

(via 百式

2010年4月21日水曜日

デザインの悪魔

学際(インターディシプリナリー)について、とある最高学府でお話しを伺ったときに思ったこと。


学際(interdisciplinary)

  • どんな専門分野にも垣根はない、ということを研究するための専門分野。
  • 先生方による「学園祭」。

文理融合(academic fields that integrate the humanities and science)
  • 教授同士の仲が悪いという理由だけでバラバラにされた学生たちを、再びくっつけようとする動き。
  • 分離融合ともいう。

デザイナー(designer)
  • アーティストに対する最大限の侮辱。
  • 芸術家としてのモラルを捨て、消費資本主義に心を売った人のこと。
  • 例:「やっぱりデザイナーのつくるものは誰に対しても魅力的ですね」

アーティスト(artist)
  • デザイナーに対する最大限の中傷。
  • 社会との接点を捨て、なりふり構わない表現をする自分勝手な人のこと。
  • 例:「あなたはひょっとしてアーティストが向いているのではないでしょうか?」

エンジニア(engineer)
  • 科学者に対する最大限の誹謗。
  • 学術的な高みをあきらめ、イノベーションや合理化という卑猥な目的のために技術を使う人のこと。
  • 例:「君のようなエンジニアに新商品の開発を任せたいと思っているんだよ」

科学者(scientist)
  • エンジニアに対する最大限の嫌味。
  • 利用目的やフィージビリティを考えず、やみくもに自分の興味ある実験や理論展開を行う人のこと。
  • 例:「まるで科学者の方と話しをしているみたいでワクワクします、何でも出来る気がしてきました」

分離と融合
むかし、といってもダ・ビンチとかの時代の話しですが。500年くらいむかし、デザインもアートも、エンジニアリングも科学も、ぜーんぶ一緒だった幸せな時代がありました。しかし今、専門分野を細分化することが合理的で文明的な行いだと、我々は長い時間をかけて信じ込まされて来ているのです。
これをまた元通りにするのは、大変な苦労が要ると思います。だって話す言葉も思考も違う人たちが(話す言葉と思考とはほぼ同じ意味ですが)、ファッションや生活様式さえも違う人間が(ファッションと生活様式もほぼ同じ意味ですが)、相互に理解し合わなくてはいけないからです。
このブログはデザインとエンジニアリングの間をひもで結ぼうとしていますが、世の中にはまだまだ無数の輪っかや切れ端が散らばっているような気がします。環境と情報とか、哲学と芸術とか、民俗学と広告とか。無数にある専門分野の、それぞれの対角線を結ぼうというのですから、「人の数だけ学際あり」といっても過言ではありません。
どうかみなさんなりの学際を見つけてください。そこに何らかの答えがあるはずです。


 

2010年4月20日火曜日

デザイナーのファッションセンスについて。みんな全裸になーれ!

デザイナーは決してオシャレではない、ということを書いた。
デザインの分野によって、着ている服のセンスも違う、という事も書いた。
なおこれらは一般的な話しであって、個別のデザイナーがどうのこうのという話しではない。

みんな全裸だったらいいのに
ファッションは、その人の人となりを表出させる残酷なメディアである。これはデザイナーにとって悲劇になりうる。もっと簡単に言えば、

  • ファッションがダサい人は、クリエイティブではない。
と思われがちだ、ということである。ファッションがダサイから、という理由で。あるいはまた、ファッションに力を入れすぎているから、という理由で。デザイナーの成果を正当に評価できなかったり、商機を失う場合もある。まさに、ファッションの悲劇である。

そんな場面をみていると時々、「みんな全裸だったらいいのに」と思うことがある。もちろんこれは、比喩的な意味で受け取ってもらえれば良い。見かけに表象される記号に囚われることなく、その人の肉体=デザイン行為だけを見とることができるようになりたい。つまり、「精神的に全裸」になりたいものだ。

2010年4月19日月曜日

デザイナーのファッションセンスについて。

5yearsPAST<FUTURE


世の中のたいていの人が誤解しているけれど、「デザイナーは決してオシャレではない」。これからデザイナーと恋に落ちたいと思っている人のためにリストアップをしておくと、
  1. Web、パッケージ、グラフィック系の人はオシャレである。
  2. 建築、インテリア系の人はオシャレであることを嫌がって、真っ黒か真っ白の服を着ている。
  3. プロダクト、インタフェース、情報系の人は非オシャレである。
  4. テキスタイル、ファッション系は、ひどい。
だいたいこんな感じだ。
オシャレである事というのは、パタパタと変わるモード、すなわち常に他人との差異を生み出し、目を惹く組み合わせを追い求めることである。Webやパッケージ、グラフィックデザインは、どこかそれに通じる匂いがする。
建築系の人は、建造物の特性上、モードの進化が桁違いに遅い。だからいわゆるファッションは、認識はするものの、自分とは波長の違う世界だと思っている。だからより伝統的で普遍的な服、真っ黒か真っ白の服を着ている。彼らが多かれ少なかれ伝統(モダニズム)に縛られてている点も関係しているのだろうか。
かつてのプロダクトデザインは、体中が泥だらけ、粉だらけ、グラスウールだらけになる分野だったので、そもそもファッションとは関係がない。また、今はコンセプト、シナリオ、ユースケースを考える分野になりつつあり、プロダクトそのものの彫刻的な価値ではなく、プロダクトを通じた見えないユーザーとのインタラクション、デザイナーの指先の、さらにその先をデザインしている。すっかり定着したアフォーダンス、無意識、ストーリーデザインといった手法は、形のないものを相手にするインタフェースデザインや情報デザインとの親和性が高い。そこでは色や造形はあまり興味の対象とならないし、どちらかというとケガれたものだと思われやすい。オシャレの記号を知っていても、それを避けているのである。だからみんなダサイのではなくて、「非オシャレ」である。
テキスタイルやファッション系のデザイナーは、モードの「その先」を見つけ出すのが役目なので、当然のことながら現代のモードが「オシャレ」だと思っている我々一般人からみると、そのファッションは奇異なものに写る。だから、普通のオシャレ感覚の人には理解できない。


デザイナーのファッションを褒める時の注意点
  1. Web、パッケージ、グラフィック系の人に対しては、素直に「オシャレですね」と言えばよい。決して具体的な取り合わせについて説明的な賞賛を加えてはならない。それはヤボなことである。
  2. 建築、インテリア系の人には、「白(または黒)がお似合いですね」と言う。もしそれが高価そうな物であったなら、その生地を褒める。
  3. プロダクト、インタフェース、情報系の人に対しては、Tシャツの図案を賞賛すること。またアクセサリー、靴の構造、手袋の縫い方、自動車、時計や文房具の機構などメカニカルなものに注目するのも良い。
  4. テキスタイル、ファッション系は見極めが難しい。テキスタイル系は材料屋さんであってファッションそのものの取り合わせには興味が無い場合がある。下手に褒めると「今日は、全部ユニクロですけど?私の作ったマフラー以外はね」などと墓穴を掘りかねない。ファッション系も多義に渡るし、よく勉強していないと追いつけないので下手なことは言えない。無難なところで、珍しいものを見たら「それはご自分で作られたのですか?」「ご自分で染められたのですか?」くらいにとどめておくこと。

ファッションとは何か?

一瞥して着ている人間の人となりを示す残酷なメディア、それがファッションである。ファッションはモードによって規定される。モードには意味がなく、それは単なる「記号」でしかない。

  • 「そしてデルタの子供はカーキーの服を着ている。ああ、いやだ、デルタの子供たちなんかとは遊びたくない。それにエプシロンときたらもっとひどい。とても馬鹿で読み書きもできやしない。おまけに黒の服を着ている。ほんとにいやな色だ。ベータに生まれてきて、ほんとによかった」
  • 「アルファの子供たちはねずみ色の服を着ている。彼らはひどく利口なので、われわれよりずっと猛烈に勉強する。自分はベータに生まれてきてとてもよかった、だってそれほど勉強せずにすむのだから。それにまた、われわれの方がガンマやデルタよるはずっといい。ガンマは馬鹿だ。彼らはみな緑の服を着ている、そしてデルタの子供たちはカーキーの服を着ている。ああ、いやだ、デルタの子供たちとは遊びたくない。それにエプシロンときたらもっとひどい。とても馬鹿で。。。」
(ハックスリー、すばらしい新世界)

私たちは記号であることを薄々知っていながら、その記号に一喜一憂して、その誘惑に勝つことができない。その記号を生み出すのはデザイナーであり、デザイナー自身もファッションという実にわかりやすい記号に縛られている。
さて、今日はどんな服を着ようか?真っ黒でいいかな。

 

2010年4月16日金曜日

このブログに対する良くある批判

いつも読んでいただきありがとうございます。
今日は常連の方々への御礼を兼ねて、このブログに寄せられる良くある批判とその答えを書いてみようと思います。このブログの数千人ほどの読者は、幸いとても知性の高い方々のようです。その証拠に、いかに私がひどい記事を書こうとも、冷静な意見(批判)をこっそり寄せてくださることはあっても、誹謗中傷する事は一度もありませんでした。黙殺されることはあっても、炎上することはありませんでした。
そんな寡黙な賢者である読者の方々に(寡黙であることと賢いことはほぼ同じ意味ですが)、今日は少しだけフィードバックを書きたいと思ったのです。


最も良くある批判

  • 度を超えてダークなネタが多いのは何故ですか?
  • 本当のところ、あなたはデザインが嫌いなのでしょう?
  • デザイナーの心理を逆撫でするような記述はやめてください。

(回答)
愛する人と結婚させてもらえなくて、組織の狭間で悩み、スパイまがいの行為までさせられ、挙げ句の果ては師匠に裏切られる。そうして心がダークサイドに傾いてしまう。彼こそ正しく人間らしく、同情すべき人物ではないでしょうか?誰の話かというと、ダースベイダーの話しなのです。
どんな分野であれ、明るい面と暗い面を持っています。科学や工学は文明の進歩と戦争とによって、表裏一体をなしています。あるいは飽くなき探求心と科学者のエゴとによって、です。
このような善と悪の戦いは戯曲における定番中の定番でもありますね。それは時に人工知能と人間との戦い(ターミネーター)であったり、現実と幻想との戦い(マトリクス)であったりするのですが、どれも同じ対立構図によって成り立っています。どうも、何か新しい一つの体系が生まれたとき、そこに善と悪という表裏一体の観念が生じるのは、人類の歴史において必須の要素なような気がします。

このブログは、デザイン分野におけるダースベイダーを目指しています。とはいえ、別にデザイン帝国をつくって世界支配をしようというのではありません。私がデザインやら情報工学の世界に勝手に惚れ込み、しばし没頭した結果、それらの限界を知り、自分の浅はかさに愕然として、結果として裏切られながらも、新しい可能性を見つけようとしているだけです。ダースベイダーの居ないスターウォーズは茶番劇です。ずっと勝ちっ放しの映画ほど味気ないものはありません(スティーヴン・セガールは除く)。

そんなわけで、このブログではデザインの楽観論を述べる気はありません。常に勝ちっぱなしの、俺様デザイン自慢を展開する気もありません。「元気の素」としてそれらが必要なのはわかりますが、今や専門誌をみたり、その手のセミナーに言ったりすればいくらでも手に入るからです。そういうお祭り的なところで手に入らない、「心のくさび」みたいなものが欲しいのです。これからもデザインと社会との確かな結びつきを保つために、デザイン行為それ自身を思考し、厳しく見つめて行きたいと思っています。

実をいうと、どうもデザインに対して懐疑的・批判的な記事ほど人気が高いようなのです。読者であるデザイナーの方々は、きっとご自身の心の中にあるダークサイドを触れられている、くすぐったい感覚を受けられるのだと思います。それが不快な方は、どうぞブログを見ないでください。こちょこちょこちょ。

2010年4月15日木曜日

ジェネリック・デザインを買うかどうか

ジェネリック医薬品がどんどん浸透してきた。
健康保険組合の財政はどこも危機的な状況にあり、筆者の入っている保険組合も例外ではなく、パンフレットにはいつも、「安くて安全なジェネリック医薬品を使いましょう!」と大きく書かれている。
知財権が切れたデザインはパブリックドメイン(共有財産)となる。つまり使い放題である。ディスプレイや照明関係では、青色LEDの特許が早く切れるのを今や遅しと待っている人が沢山居ると聞く。

ジェネリック・デザイン?
最近、ジェネリック・デザインという耳慣れないコトバを聞いた。中国製の安いYチェアが1万5千円で売られていて、その横に「ジェネリック・デザイン」と書かれていたのだ。
なるほど、カールハンセンの意匠権が切れているから、これはどこかの企業がコピー品(復刻品)を売り出しているのだということがわかった。いくら合法とはいえ、コピー品というと聞こえは悪いけれども、ジェネリック・デザインと言われればなるほど、何か良い物を買った気になるから不思議だ。
ちょっと調べただけでも、「ジェネリック家具」を専門にしているお店は多い。

バルセロナチェアが13万円となれば、ちょっと玄関飾りに買っても良いかなと思ってしまう人も多いだろう。
日本での意匠権の存続期間は20年で、これは世界的に見ても長い部類に入るらしい。はたしてこれは、デザイナーの一生にとって長いのだろうか?短いのだろうか?
日本のデフレが進行して、そのうちデパートが「ジェネリック・デザインを買いましょう!」なんていうキャンペーンをやったりしないだろうか。

と、余計な事を考えながら、複雑な心境に浸ってしまった。

2010年4月13日火曜日

視覚障害者のための「触って見る」3Dヌード写真集



  • トロント在住のアーティストLisa J. Murphyさんによる「Tactile Mind」は、視覚障害者が手で触って楽しめるように立体的に盛り上がったヌード写真17点と、それらの写真を解説した点字の文章を収めた「視覚障害者のためのポルノ」として2年ほど前に自費出版されたのですが、最近になってイギリスのTelegraph紙などで「視覚障害者のためのポルノ雑誌創刊」などと報道され、注目を集めています。
とのこと。これって、たとえば全盲の人が触って「わかる」のかなぁ?作者はカナダの視覚障害者団体CNIB(Canadian National Institute for the Blind)によるTactile Graphics(触知画像)の資格を持つ35歳の写真家で、自身は晴眼者とのこと。こちらから、二万円弱で購入できるそうです。試みとしては、面白いと思いました。

(via gigazine

2010年4月12日月曜日

実録!こんなデザイン事務所はイヤだ!~デザインと全然関係ない部署に異動させられた編

上司とずっと折り合いが悪く、ある日突然、異動を言い渡されました。異動先は工場の生産ラインで、自分のデザインした製品の検品と箱詰めを流れ作業でやっています。
(インハウスデザイナー、34才、男性)

デザイナーとして採用されたはずが、就職した年にデザイン部門が解体され、営業に配属されました。同じく、デザイナー採用の友達はいま経理をやっています。
(中堅メーカー、22才、男性)


自分の「やりたい仕事」をつかめる人は数少ない。
自分の感性を信じて、学校でデザインの専門技術を学んで、さてやっと就職だというときに、クリエイティブ職ではない部署に配属されてしまったり、あるいは今のご時世どうしても就職先が見つからなくて、「やりたい仕事」ではない事をせざるを得ない人も居る。

さて、「やりたい仕事」というのは何だろうか?
長くデザイナーをやっている人で、「デザイナーは私の天職です」とか、「本当にやりたい仕事ができて幸せです」といっている人を、残念ながら私は見たことがない。もし居たら、ぜひぜひぜひ紹介してほしいくらいだ。ただし、以下の場合は除く。

  1. 本や雑誌の字面で読む有名デザイナーの語り口(だいたい美化しすぎる)
  2. 戦後日本の成長を支えた一部のスーパーデザイナー(時代が違いすぎる)
  3. 途中から管理職になった人(あまり手を動かさなくなった)
  4. 発注側に転職した人、もしくは学校の先生になった人(クライアントの言うことを聞かなくて良くなった)
  5. そもそもプロデザイナーではない人(筆者のような人)
逆に言えば、この5条件に当てはまる人というのはまだまだ「デザイン大好き」な人たちである。「デザインの最前線から帰還してもなおデザインが大好き」という意味で、デザイナーほど魅力のある仕事は無いとも言える。エンジニアも似た面があるが、他にそういう幸せな職種は少ないと思う。
さてそもそも仕事というのは、「やりたい」からやるものではない。ほかの人が「やりたくない」ことをするからこそ、はじめて価値があり、対価をもらえるというものだ。そうなると、「やりたい仕事」というコトバは、永遠に叶えられないからこそ意味のある魔法のように思えてくる。

処方箋
若いデザイナーから良く、「やりたい仕事」が出来ない!という相談を受ける。そういった人たちの境遇を聞けば、好みに合わないデザインをさせられているとか、デザインとは関係無い生産ラインに異動になったとか、営業や経理をやっているとか、同じデザイン好きとしては、思わず同情してしまう話しも多い。
でも、「デザインが大好きで、デザインの仕事をやりたい!」という気持ちを持っていられること自体、ものすごく幸せだと思う。その気持ちさえ捨てなければ、いつか絶対に叶えることができるからだ。
いつかまた始められるデザインの仕事への憧れを捨てず、ひたすら上司に異動願いをだしつつ、自分の技術を切磋琢磨して、良いデザインを見続ければ良いと思う。そして今の仕事の中で自分なりに出来る「デザイン」を探し求めるのも良い。そして最後に一番大切なこととして、
  • お願いだから、どんなことがあっても三年間は会社を辞めないで!
という事だけを頼んでいる。石の上にも三年とか、転がる岩にコケは付かないとか、いろいろな諺にもあるように、どういうわけか「三年間」というのは社会通念上の一区切りになっているからだ。
「やりたい仕事」というのは、実を言うと転がる岩のようなもの。三年ごとに転がる三角岩なら良いが、それ以下のペースで転がる多角形だと、もはやどこの会社も相手にしてくれない。

たとえデザイナーとしての屈辱を味わおうが、あなたの大切なクリエイティビティを踏みにじられたとしても、「三年間」は続けてみてください。そして、その間に起きた愚痴は全てこの「デザイン思考」ブログに送ってストレス解消してください。お願いだから。
さぁみなさん、両目を三角にしながらご一緒に。
  • 鉄の忍耐、石の辛抱(ゲーテ)

2010年4月10日土曜日

海面上昇でマンハッタンがプールに?





多少古いのですが、インドの代理店によるHSBCの広告らしいです。

 

2010年4月9日金曜日

実録!こんなデザイン事務所はイヤだ!~社長が宇宙人である編

社長が何を言っているのかわからない。
(テキスタイルデザイナー、21歳、女性)

上司が宇宙の言葉を喋っている。

(インハウスデザイナー、33才、男性)


これもしょっちゅう聞く話です。特にデザイナー上がりの人が上司や社長になった場合は、会話の内容が混迷を極めるようです。デザインは右脳を酷使するので、左脳がアポトーシス(戦略的に退化)してしまうのかもしれません。
そもそもコトバというのは、デザイン作業を行うにあたって大した効能がありません。同じ様に単語を並べたとしても、受け取る側のアタマの中に生まれる想念(イメージ)というのはバラバラです。これを修正しようとして単語を並べれば並べるほど、事態は混迷を極めます。コトバの単語そのものは共通なのに、受け取る側によってその効能が変わってしまうことを、ソシュールという賢人がいち早く気がついて、それぞれシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)という風に明確に分けた定義をしているくらいです。

処方箋
デザイナーにとって、コトバというのはイメージの(出来の悪い)代替物でしかありません。コトバはイメージに従属するものであって、色々なデザイナーが自分の想念に基づいて好き勝手なコトバを使っています。そんなコトバの世界に飛び込んで、あれこれ思案することは大変な苦痛だと思います。なぜなら、社長(上司)から並びたてられたコトバというのは、その社長(上司)のアタマの中にしか存在しないイメージを代替したものでしか無いからです。コトバを真面目に受け取った結果、あなたは「社長(上司)は宇宙人じゃないか」という論理的不可能性に陥ってしまいます。しかし、現代のデザイン作業をするにあたって、言葉は不可欠です。もはや、「デザイナーは言葉の囚人である」と言っても過言ではありません。
さて、どうすれば良いのでしょうか?

  • その社長(上司)が、どのようにしてコトバを獲得したのか?

という原点に立ち戻るのです。といっても、社長(上司)の幼年期まで遡る必要はありません。ここでの「コトバ」というのは、日本語の文法とか基本単語という意味ではなく、「社長(上司)がデザイナーとして仕事をする上で獲得したコトバ」を意味しています。それはおそらく、青年期から脂の乗った30代くらいに得たものが多いでしょう。ですから、次のようなことをすれば良いのです。

  • 「社長!デザイナーとして若いうちに読んでおくべき本はありますか?」「勉強のため今度、ご推奨の本をお借りしても良いでしょうか?」などと言葉巧みに言い寄り、社長(上司)が、青年期に読んでいた本を教えてもらう。
これで怒られることは、まず無いと思います。あわよくば本も無料で貸してもらえるし、貴重な古本も読むことができます。最近のデザイン本はHow-toばっかりなので、昔のデザイン本の貴重さに気づく事があるかもしれません。そうなれば一石二鳥です。
それから、
  • 社長(上司)が口にする「宇宙語」を、片っ端からメモします。このとき、日本語の接続語とか文法を気にする必要はありません。意味の分からなかった単語や固有名詞をメモするだけで十分です。メモが難しい場合は、ボイスレコーダーでも構いません。最近は携帯電話に付いていますよね?その後、それらの単語を片っ端からGoogleで検索します。このとき、社長(上司)的に意味が近そうな単語を組み合わせて検索するのです。
というような事も現代的で有効な手法です。Googleは複数の単語の相関関係から関連の強い文書を探し当ててくれます。これは人間の中でのコトバのパズルに近い現象であり、社長(上司)のイメージを探る旅を助けてくれる事でしょう。
例えば一番上のマンガでは「コウモリ傘」「ミシン」という単語が出てきますが、この2つをGoogleに入れるだけで、それが何を言っているのか即座に見つけ出すことができます。
このようなことはテキストマイニング(文書から宝を発掘する作業)と呼ばれ、昔は大変高価な人工知能システムでしか実現できませんでした。今はせっかくGoogleという無料ツールがあるのですから、利用してみない手はありません。なお、どうしてもわからない言葉がある場合には、「デザイン思考」ブログまでコッソリご相談ください。

さぁ、みなさんご一緒に。
「主人の言葉は、春の冒険への旅立ち!」

2010年4月7日水曜日

実録!こんなデザイン事務所はイヤだ!~CADを使わせてくれない編


いまどきCADを使わせてくれないんです
(プロダクトデザイン事務所、23才、男性)

使い終わった鉛筆10000本を糊で固めてオブジェにしたものが社長机の上に飾ってあって気持ち悪い
(グラフィックデザイン事務所、19才、女性)

設計事務所なんですけど、ずっとドラフターで仕事をさせられてます
(アトリエ系設計事務所、31才、男性)


これは、あちこちで良く聞く話しです。そういえば私の父はバキバキのグラフィックデザイナーですが、私が美大に入るときに「息子よ、1mmの中に烏口で何本線が引けるようになった?」と質問されました。私は「カラスグチって何ですか?」と応えて父を失望させたのを覚えています。

「手仕事の職人的な熟練こそが良い製品を生むか?」、と聞かれると答えはノーだと思います。ではなぜ手仕事が大切なのかというと、「心構え」とか「教え」による部分が大きいのではないでしょうか。

処方箋
例えばこんな風に考えてみましょう。新しいスーパーCADソフト「ダビンチ」が開発されたとします。ダビンチは建築、構造、図案、工業意匠などあらゆる分野の設計に使うことができて、息を呑むような美しいレンダリングをリアルタイムに生成できます。しかもこのソフトは、任天堂wiiで動作するのです。デザイナーは目を閉じて瞑想し、wiiのスティックを念じながら振り回すだけで、思い通りのモデリングができる、とされています。

あなたが社長をつとめるデザイン事務所に新入社員が沢山入ってきました。彼らは学校で習った通り、眼を閉じてwiiを振り回しながらモデリングをしています。しかし、そのデザインの出来栄えはイマイチです。
きっとあなたはこう思うでしょう。「頼むから事務所でそれを振り回さないでくれ。私がちゃんとしたCADソフトの使い方を丁寧に教えてあげるから!」

心がまえや知識の伝承(ミーム)という作業が大切だと思っている人ほど、つまり新しいデザイナーを育てようという愛のある人ほど、伝承する側と伝承される側の両者が話す言葉=「道具」というのが揃っていることを大切にするんだと思います。どちらかが相手と言葉=「道具」を合わせなくてはならないのであれば、合わせるべきは主人ではなく、より若く格下の側だというのが、この国の美徳だと思うのです。

さぁ、みなさんご一緒に。
「烏口を使おう。主人の愛と未来のために!」

2010年4月5日月曜日

実録!こんなデザイン事務所はイヤだ!~ポートフォリオを投げつけられた編

ポートフォリオを投げつけられた。

ポートフォリオやスケッチは、デザイナーの顔ですよね。まだまだ印刷が高価だったころ、ポートフォリオというのは、指紋を絶対に付けないように丁寧に隅っこを持ったり、白手袋をはめて触れられたものでした。まるで美術作品をたしなむかのように。それを投げつけるなんて、なんて野蛮な会社でしょう!?
投げつけられたデザイナー(もしくはアーティストや設計士)のショックは大きかったと思います。

でもいくら憂えてみても、「ポートフォリオを投げつけられた」という事実は覆すことができません。ここは一つ、落ち着いて投げつける側の感情に眼を向けてみましょう。
繰り返しになりますが、ポートフォリオはデザイナーの顔です。「顔」というのは比喩的な意味ですが、本当にあなたの顔そのものなのです。つまり、デザイナーのカラダ、クセとか趣味の全てがそこに現れています。「投げつける」というのは、よっぽどあなたの「顔」が気に食わなかったので、かんしゃくを起こしたに違いありません。つまり、「作り直して来い!」という意味なんですね。まったく腹が立ちます。

  • われわれの自尊心にとっては、自分の意見をこきおろされるよりも趣味をこきおろされるほうが、いちだんと苛立たしく我慢できないものである。(ラ・ロシュフコー)

処方箋
「作り直す」といっても、もちろん顔は作り直すことができません。ラーメンじゃないんだから。本当にヒドい話しです。
でも一方で、カラダのクセとか、趣味であれば修正(アジャスト)することができますね。このとき投げつけた本人が社長だったのかクライアントだったのかわかりませんが、どちらにせよ相手はあなたの「主人」にあたる人です。主人の好むようなデザインを提示するのが、サービス業に従事するプロのデザイナーなわけです。だからこの場合、かんしゃくを起こすまで主人を逆上させてしまったあなたの側にも瑕疵があるわけです。もちろん、「とってもドライにみれば」という話しですよ。

ポートフォリオの語源
ポートフォリオ(portfolio)というのは、ラテン語のport(…を運ぶ)と、folio(一葉)を合成したイタリア語だといわれているそうです。つまり、元々は「色々な種類のものをひとまとめに運ぶ」という意味があるのですね。だから現代投資理論でポートフォリオというと、「複数の金融商品に分散投資すること」を意味します。リスクを分散するために特性の異なる様々な種類の株などを買うわけです。

簡単に言えば「下手な鉄砲も数打てば当たる」ということです。なのでポートフォリオというのも、
  • そもそも相手(主人)に何がウケるかなんてわからないので、それっぽいものを「幅広く」入れて持っていく。
  • 見せる相手(主人)が変わる場合は、その時々に合わせてポートフォリオを差し替え組み換えする。
という性質のものだと思います。
最初に、「ポートフォリオはデザイナーの顔だ」と書きましたが、実はこの説明は十分ではなくて、「ポートフォリオはデザイナーの顔の持つ無限の表情をうまく寄せ集めたものだ」ということになります。
これでほんのちょっとだけ気が楽になったでしょうか?
ポートフォリオを編集して、またチェレンジする気になってきましたか?

さぁ、みなさんご一緒に。
「顔は作り直せないけど、ポートフォリオは作り直せる」

2010年4月4日日曜日

情報処理学会、日本将棋連盟に「コンピュータ将棋」で挑戦状をたたきつける

泣く子も黙る、日本最大のコンピュータ学会である情報処理学会(IPSJ)は、コンピュータ将棋でトッププロ棋士との公開対局を求める挑戦状を日本将棋連盟に送ったらしい。日本将棋連盟はこれを受諾、今秋、清水市代女流王位・女流王将とコンピュータ将棋が対戦するという。

情報処理学会から日本将棋連盟に送られた挑戦状

日本将棋連盟の返答。挑戦を受ける姿勢(出典:情報処理学会)


計算を行うハードウェアは、東大、京大、筑波大などの並列処理大規模計算機環境のグリッドを使う方向で検討しているとのこと。
エイプリルフールかと思ったら、どうやら本気らしい。チェスと違って、将棋は取られた駒を再利用できるので、複雑さは桁違い!はたして勝敗の行方は。。。




左から米長会長(日本将棋連盟)、
清水市代女流王将・女流王位、白鳥会長


(via itmedia)

2010年4月3日土曜日

驚愕の空中撮影、鷹の目がビデオカメラになったら?



上平先生が身体能力と動物のデザインについて書かれていたのを思い出し、休日に何かビデオを見たくなる。

手に取ったのは、様々な動物の行動を特殊カメラで撮影したドキュメンタリー。
ダイアログ・イン・ザ・ダークのように、暗闇の洞窟の中を手探りで移動するヒヒの群れにビックリ。猛禽類との空中戦や、木の幹を避けながら林の中を高速で滑空する鷹の姿は圧巻。人間の技や、動物の身体能力からインスパイアされるデザインは美しい。


2010年4月1日木曜日

デザイン政策について~小国クラコウジアからの手紙

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a9/Alexandria_egypt.jpg

石垣さん、こんにちは、デザイナーのナヴォルスキーです。いつもブログを読んでいます。
今日はユーラシアの小国クラコウジア共和国(Krakozhia)のデザイン政策について、ご返信いたします。

以前お伝えした通り、我々の国では、デザイナーというのはとても地位が高く、産業の頂点に位置するといっても過言ではありません。
先進国でいう弁護士、医師、一級建築士といった士業と同じように、デザイナーになるための国家認定制度があります。国家資格を持つ弁護士、医者やデザイナーの給料は国会議員と同じであり、国が最低年収4000万シリング(約1800万円)を保障しています。デザイナーは、国家元首の次に給料の良い職業です。

あなたがデザイナーになるためには、4年に1回だけ実施されるデザイナー検定試験をパスしなくてはなりません。試験では、芸術的資質はもちろんのこと、デザイナーとして必要とされる様々な社会的役割についての面談がなされます。なお検定試験の実施においては、あらゆる身体障がい者、また外国人や高齢者が受験できるよう、デザイン元老院(後述)による特別の配慮がなされます。
これまでの試問内容を抜粋すると、たとえばデザインの発展がもたらした兵器や抗争の歴史、プロダクトデザインにおける素材物性と地球環境についての具体的な問題、ブランディング・広告・グラフィックデザインにおけるプロパガンダ論などです。一昨年は、貧困層に対するデザインマネジメントとイノベーション及びリスクについて出題されました。
最近クラコウジアでは、経験豊かで優秀な外国人、特に日本人のデザイナーを積極的に受け入れており、日本でのデザイン経験が一定以上あれば、実技と筆記試験が免除されます。

国営企業や外資系企業は、1つの事業部に1人以上の管理職デザイナーを置かなくてはなりません。それが出来ない場合は、デザイナーによる提案と意志決定プロセスを外部のデザイン事務所に発注することになります。行政の事業を行う際にも、様々なデザイン・アセスメントが義務づけられています。ですからこの国には、1000を越える独立したデザイン事務所があり、商品企画の段階から生産、そしてメンテナンスや広告といったすべての段階において、デザイナーが非常に重要な提案権と意志決定権を持っています。この国の産業は弱いのですが、対外輸出の大半はスイスの国連機関、北欧系の銀行、イギリスの保険会社、BRICs諸国へのデザイン役務(主にコンサルテーション)によって賄われており、10名以下の小規模なデザイン事務所であっても年間売り上げの中央値は250億シリング(約113億円)程度です。GDPの30%を占めるデザイン産業の育成は、我が国の5大立法政策である「デザイン振興と倫理及び処罰に関する法律」(クラコウジア共和国指令GSK501号)によって一体的に促進されています。

デザイナーの権利が大きい分、当然ながらその名誉を傷つけた場合の処罰も厳しいです。13年前に、ある海外製の家庭用ゲーム機器30万個に有害物質が混入してい た事件では、クラコウジア人がデザインを担当しており、彼はデザイン元老院の特別裁判所から懲役821年を言い渡されました。この判決の算定根拠は「30万個÷365日=821年」であり、判決では共和国憲法前文にある「毎日を正義とデザインのために(diariamente voy Justiça e um Gskas)」の文言が参照されました。
デザイナーはみんなの憧れなので、国家資格を持っていないのに神聖なるデザイナー(Gskas)を名乗り、不法にデザインまがいの行為を行う犯罪者が後を絶ちません。そういう人はだいたい国外追放処分となり、中には海外で「デザイナー」として活躍するそうです。クラコウジアでは一般人の海外渡航が禁止されているので、こうやって海外に出て「デザイナー」になる人が居て、問題になっています。しかもそういう人に限って、有名になってしまうのです!
もちろんデザイナーになれなかった人にも優秀な人が沢山います。彼らはアーティストやクリエイター(Igskas)と呼ばれ、デザイナーの元で良い仕事をしています。

さて、クラコウジア・デザイン元老院(Krakozhia Gska Bacholonia、通称KGB)についてご説明したいと思います。デザイン元老院はデザイン司法を担うと共に、行政政策や立法に対して大変な威厳を持っています。これは日本でいうところの経済団体や医師会のようなものでしょうか?
ここのメンバーになることは大変な名誉であり、デザイナー出身の国会議員や官僚も少なくありません。
都市計画や公共建築についても、会員デザイナーによるオープンで活発な議論と批判が沢山繰り返されており、しばしば新聞(といっても国営のクラコウジア・ニュースしかありません)のトップ記事を飾ります。国民(といっても東京の人口より少ないのですが)はみんな、デザインに対してとても興味があり、デザイナーはいつでも子どもたちの憧れの職業トップです。デザインについての授業は、公式には小学校から行われますが、私塾や幼稚園でもデザインを教えることが多いです。クラコウジア出身の教育学者であるマリア・モンテソーリ式の感覚教育や、同じくクラコウジア貴族家系であるブルーノ・ムナーリ氏のワークショップ手法が良く知られています。

さて、理由はよくわかりませんが、この国の人たちは、アメリカ、イタリアのデザインには興味がほとんど無いようです。日本のデザイナーはとても注目されていますが、外交上の交流が無いこともあり、情報があまり入ってきません。この理由については次回、また考えてみます。
デザインに興味があるなら、クラコウジアに遊びに来てください。それでは。