2008年9月30日火曜日

うるさい日本の私(その2)~デザインされた「ノイズ」

 前回、「デザインされた騒音」という言葉を使いました。エスカレーターの乗り方指南や、確信犯的な駐車違反に対する注意など、利用者にとって何の価値も無く、うるさいだけでしかないアナウンスを「デザインされた騒音」と定義しました。そしてこれらの騒音は、実は利用者のためではなく、管理権限者のポージング、すなわち何か事故やクレームなどのインシデントがあったときに、第三者やマスメディアに対して対策を行っていたことを示すための既成事実づくりを目的としてデザインされているものであるという考察を紹介しました。

デザインされた「ノイズ」
 騒音を英語で言うとノイズ(noise)になる。ノイズというと、音に限らずけっこう広い意味がある。例えば通信用語でいうところのノイズとは、必要な情報(signal)とは関係の無い、無駄な情報全般を意味する。我々の生活のなかで、「デザインされたノイズ」というのは果たしてどのくらい存在するのだろうか。

 この張り紙をつくった「デザイナー」に、いったい何が起こったのだろうか。見ればわかるだろ!!!!

 前半の「ここは上野毛緑化地域です」という部分に、いかにも管理権限者側の都合が見え隠れしている。緑化地域かどうかは、利用者にとって全く何の関係も無い。

東武鉄道の乗務員室入口、VOWあたりに掲載されてもおかしくない。(via hagishiri)

何が問題なの?
 こういうことを書くと、「別にいいじゃない、無視すれば」という意見がでてくるかもしれない。でもこれは社会全体のコミュニケーションデザインという観点からみると、大変な問題だと思う。簡単に問題を整理すれば、
  1. 聴覚、視覚などのメディアを通じたコミュニケーションのS/N比が低下して、肝心な情報が行き届きにくくなる(デザインの質の低下)。
  2. 利用者が無意識にノイズを無視することで、本当に大切な情報が失われるというデザインの矛盾が起きる(利用者の意識の低下)。
  3. インシデント防止の既成事実づくりという無意味なデザイン行為によって、モラルハザードが起きる(提供側の意識の低下)。
といった具合だ。最後のモラルハザードの話しは根が深いので、後でもう少し詳しく説明したい。

2008年9月29日月曜日

うるさい日本の私(その1)~デザインされた騒音

 騒音というと普通、道路や工事の音が問題になるし、現にそれが原因の殺人事件なんかも良く起こっている。これらは車を走らせたり、工事をするという目的達成の「副産物としての騒音」である。すなわち意図が無く、編集もなされておらず、価値も無い。だから「デザインされていない騒音」だといえる。
 しかし世の中には「デザインされた騒音」がある。デザインの定義に基づけば、「デザインされた騒音」とは、「それに価値があると信じ、意図を持って編集した騒音」となる。

デザインされた騒音

  1. 「エスカレーターにお乗りの方は、ベルトにおつかまりください。小さなお子様連れのお客様は、、、、、」
  2. 「ただいま京王線では交通安全運動を実施しております、駆け込み乗車は危険なばかりでなく、、、」
  3. 「井の頭公園周辺の道路は駐車禁止となっております、迷惑駐車は、、、」

 これらのアナウンスは、いったい何の目的で流されているのだろうか。1は事故防止、2は駆け込み防止、3は迷惑駐車防止、、、本当だろうか?
 1の放送を聞いたオトナが、「ああそうか、エスカレーターっていうものはベルトにつかまるんだな」と思うのだろうか?2の放送を聞いたサラリーマンが、「交通安全運動を実施しているからには、僕も気を引き締めないといけない」と感じるか?3の放送を聞いた運転手が、「いけないいけない、あそこは駐車禁止だったからすぐに移動しないと」と行動を起こすか?そんなバカな人がこの世に居るだろうか?
 これらのアナウンスは、それに価値があると信じ、意図を持って編集されたものに違いない。しかしその「価値」は、少なくとも利用者のためにはない。だからこれらは、「デザインされた騒音」である。世の中はデザインされた騒音に満ちている。

うるさい日本の私
 哲学者で、電気通信大学教授の中島 義道先生が書いた「うるさい日本の私」というシリーズの本がある。その中で、ここでいう「デザインされた騒音」に関する考察がなされている。
 簡単にいうと、これらデザインされた騒音の究極の目的は「ポージング」にあるというのだ。アナウンスをしたという既成事実をつくることで、管理権限者による危険防止、事故防止、不法行為防止が行われていることを示すことができる。また大衆に対して、管理権限者のみが一方的なアナウンスという広報活動を自由に行う特権を有するという、いわば「権力意識」が存在し、それがポージングにいっそうの拍車をかけているのだという。(理解が間違っていたらごめんなさい)

次回は騒音=ノイズ(noise)をより一般化して、街中観察をしてみたいと思います。


2008年9月28日日曜日

(休日の路上観察)彼岸花


 ちょっと前にデザインのS/N比の話しを書いた。彼岸花ほど、「S/N比の高い植物」は無い。すうっと伸びた茎に、一点の花、それだけ。裸電球、線香あるいは短冊和歌に通じるミニマムな美しさがあると思う。彼岸の時期にさえ咲かなければ、もっと素敵な名前が与えられていたのではないだろうか。例えば「花火花」とかね。
 ちなみに埼玉の日高では今月末まで、彼岸花の群生が見られる。

2008年9月23日火曜日

(休日の自由研究)白い日傘の木漏れ日や。


 晴れた日に真っ白な傘を差して歩くと、こんなに綺麗な木漏れ日が見える。歩くごとに違った模様が現れ、そよ風が吹けばチラチラと動いてみせる。木漏れ日は自然がつくる「現象」だけれど、白いキャンバスに写るそれは、間違いなく僕が「デザイン」している。

2008年9月21日日曜日

(休日の路上観察)井の頭線の渋谷駅MarkCityの階段

 ルイス・バラガン風?のこの階段、実は岡本太郎さんの作品を渋谷に設置するための仮囲いなのだ。最近は仮囲い用パネルやネットのバリエーションが増えてきて、目を留めてしまうものが多くなってきた。デザイナーは、東急建設の職人さん。

2008年9月10日水曜日

(ちょっと脱線)痛々しいプレゼンテーションに釘付け!

難しい話が続いたので、ちょっと脱線。

  • 「あぶないからやめなさい!」
  • 「家具に登っちゃダメ!」

 いろいろ子供に注意するのもいいけれど、本当に危険なことをやめさせたければ福井県にある株式会社ジャクエツのショウルームに行くのが手っ取りばやいかもしれない。



 ここでは、実際に起こった子供の事故事例を収集して、それをリアルスケールの模型という形でプレゼンテーションしている。

ジェットコースター感覚のプレゼンテーション

 テレビの「衝撃の瞬間」シリーズが好評なのは、災いをテレビというデバイスを通じて見ることで、自分は安全だと論理ではわかりながら、感情的には移入し手に汗をかいてしまうという、いわば分裂症的な体験を楽しむことができるからだ。左脳では安全だと知りながら右脳は緊張してしまうという、ジェットコースターに乗っている時と同じ感覚を味わうことができる。

写真:脱力系に描かれたイラストの中でとんでもないことが繰り広げられる、地震イツモノート(イラスト:寄藤 文平)。

写真:転倒、つまづき、感電、頭打ちなど、さまざまな境遇におかれたピクトさんを特集した、ピクトさんの本

ジェットコースター感覚がウケるワケ

 現代人は意思決定の全てが情報化しつつある。だから、感情的・動物的には何も感じないまま、論理だけで判断する機会が多い。中学、高校、予備校、大学を決めるのは、様々な受験データや進学・就職データに基づいている。会社に入れば、ワンマン社長の勘による意思決定は一昔前の話しで、いまや時代はグローバリズム、事業計画は綿密なマーケティング戦略に基づいて淡々と実行される。
 ジェットコースター感覚がウケる理由には、こうした背景があるような気がする。「人の不幸は蜜の味」は、一つの現代病かもしれない。