2010年2月4日木曜日

無印良品=空虚な記号


 デザインの話をしていると、よく「無印良品」の例が出てきますね。自宅のすぐ近くに無印良品があって、そのディスプレイの前で「もうデザインなんていらないよね、無印で十分だ」と話しているカップルが居ました。

無印良品の神話と構造
 当然のことながら、無印良品というのは現代デザインの塊なわけです。素っ気無い感じのする、しかし綿密に計算されたエコっぽいパッケージ、ラベルには気の利いたキャッチフレーズ、店員さんの服装、音楽、広告、その全てにおいて、「無印っぽさ」すなわち、「デザインされていないっぽく見えるデザイン」がみてとれます。考えられる限りの高度なブランディングの手法が、そこには全て入っています。
 無印良品というのは、商品をしょっちゅうモデルチェンジします。まるでイヤーモデルの自動車やファッションみたいに。売れないとわかればどんどん廃盤にします。でも、それがわかりにくい。というよりも、しょっちゅうモデルチェンジをしていることが消費者に伝わらないようにデザインしています。
 いつも同じ音楽、同じ服装の店員さん、無印っぽいディスプレイ、統一された照明の色温度、そういった「無印空間」はひとつの空間として存在しつづけます。その中には、当然のことながら株式会社として必要な大量生産・大量消費の仕組みがうごめいているのですが、私たちにはそれが見えないように、巧妙なデザインがなされているのです。走馬灯のように陳列棚とPOPがチラチラと入れ替わる大量量販店と同じような存在でありながら、無印はいつも無印なのです。

メタ消費
 むかしボードリヤールというひねくれ者がいて、『消費社会の神話と構造』という本の中で「メタ消費」という概念を打ち出しました。面白いので、そのまま引用します。

  • それはもはや”見せびらかし”によってではなく、控えめな態度や飾りのなさによって示される行動、反対物に変貌する過剰な見せびらかしであり、”より巧妙 な差異”でもある。差異化は、この場合はモノの拒否、「消費」の拒否の形を取ることができるが、これはまた極上の消費なのである。

 無印良品を生み出した堤清二氏は消費社会論の研究をしていたそうなので、間違いなくこの本を読んでいたのだと思う。かくして巧妙な「差異」を生み出すためのデザイン、デザインされていないっぽく魅せるためのデザインは、無印という空虚なハコをつくり、そして「もうデザインなんていらないよね、無印で十分だ」という記号を生み出すことに成功したのです。

原研哉トークイベント
 無印良品のWebでは、原研哉トークイベントの様子が公開されている。そこでは、「無印良品はエンプティネス、その中にはなんでも入れられます」というタイトルが付けられていた。まさに、空虚な記号としての無印良品のスタイルに言及した内容だと言えましょう。
 日本の象徴観や情緒感は、どこか空虚な記号に傾注する趣があるようです。原研哉氏のトークは、国旗やら神社やらに見られるこの日本人的な特性を、消費喚起のための「デザイン」に応用できることを、わかりやすく言い当てているような気がしました。

無印良品の「気持ち悪さ
 大衆消費者が無印の世界観に共感することは、もちろん、これっぽっちも悪いことではないと思います。ただ、時々ですが、世の中の「デザイナー」が無印の世界観にどっぷりハマってしまっている事があるような気がします。
 デザイナーというのは、消費喚起であれメタ消費であれ、消費社会におけるムーブメントに敏感であり、それを超えることが求められるのだと思います。しかし無印のブランディングがあまりにも高度であり、コンシューマメディアだけでなくて業界紙やデザイン関係者までがそれを助長するものだから、どこかミイラとりがミイラになってしまっている気がするのです。生み出すものと消費するもの、表現するものと表現されるもの、デザイナーとコンシューマとの間に本来あったはずの「ねじれ」というものが、まるでより戻しているかのような、幻想を見ているように思えるのです。

悩める企画者、悩めるデザイナーは、今一度「消費」について勉強し直すことにしましょう。