2011年1月31日月曜日

自分の殻を破るための奥義

若き詩人は自分の殻を破りたいと思い、(怖い事で)有名なデザイナーのところにいきました。

詩人「デザイナーさん、デザイナーさん、どうやったら自分の殻を破れますか?」
デザイナー「どうやったら自分の殻を破れるかを人に聞いている時点で、おまえの感覚は凡人すぎる。そんな奴のところに殻の神はやって来ないんだよ!帰って貝でも洗ってろ!」

若き詩人はたいそう傷つきましたが、今度はめげずに、やさしいエンジニアのところにいきました。

詩人「エンジニアさん、エンジニアさん、どうやったら自分の殻を破れますか?」
エンジニア「自分の殻っていうのは人の自己意識や知覚・感覚に関わる工学的な尺度なんだよね。まずは感性工学に関する古典的な文献と最新の研究論文を読んでみたらどうかな?それから人間工学の点では、ISO/TR 9241-310 Ergonomics of human system interaction—-Part 310: Pixel defects – Visibility, aestheticsand ergonomicsあたりでも議論があるかもしれないな。」

若き詩人は山のような参考文献を借りましたが、どれを読んでも専門的すぎてチンプンカンプンでした。そこで今後は、哲学者のところにいきました。

詩人「哲学者さん、哲学者さん、どうやったら自分の殻を破れますか?」
哲学者「まぁまず自分の殻の定義は置いておくとして、あなたが自分の殻を破るという事と、他の人があなたをみたときに自分の殻を破っているように見えるということは全く違うのだよ。例えば、あなたが自分の殻を破っていないにも関わらず、他の人からみたら自分の殻を破っているように見えるかもしれない。あるいは、自分の殻を破っているにも関わらず、自分の殻を破っていないように見えるかもしれない。では、その<他の人>というのは果たして<自分の殻>を破っているのだろうか?このように考えると、そもそも自分の殻を破っているかどうかは、絶対的な尺度ではなく、はなはだ現象的な観念であるように思えてくる。」

若き詩人は冒頭部分の途中で寝てしまい、哲学者を怒らせた上に部屋から追い出されてしまいました。
困った詩人は友達に、これまでのいきさつを話しました。
すると友達は言いました。

「きみのやった行動はセンスがあるし、十分に自分の殻を破ったと思うよ。」

2011年1月29日土曜日

眼鏡女子のファッションコーディネート(HD動画)と、香里奈がクルクル


おしゃれメガネ女子のHD動画を毎週2回お届け
でかいメガネ、流行ってるなぁ。
109なんて店員さんが全員これ。
ところで女子の間で流行っているファッションと、男子ウケするファッションとの乖離が進んでいる気がするんだけど、どうなの?でかメガネとか、ナチュラル系とか、森ガールとか。

といったようなことを、全く別セグメントのおじさんが考えるのにちょうどよいコンテンツなのです。



あと、香里奈が360°クルクル回るニッセンとかもどうぞ。

(designwork-s.com)

2011年1月28日金曜日

芸術的な点心を食べた夢



「ほぅら、こんなところにも点心が入っているよ。」

ひょうきん顔のおじいちゃんは、そういってパカリと財布を開いて見せた。
もくもく湯気立つフカフカの点心が、がまぐち一杯に入っているではないか。

「どぉんな下らないものでも、
よぉく探せば、おいしい点心がある。
茶筒、麻袋、暖炉、屑箱、厠、どこにでも。
お隠れ点心を探しなさい。
それが芸術というものです。」

どおりで良い事を言うなぁと思ったら、
そのおじいちゃんは岡倉天心だった。
目が覚めると嫁さんが、点心を蒸かしていた。


2011年1月27日木曜日

ぶんまわす剣の先にカメラを付けるとこう見える

ぶんまわす剣の先にカメラを付けるとこう見える。
(ideaxidea)

矢の先にカメラをつけて打つと。。。
(らばQ)

学校で「釣りの絵を描け」といわれて、魚の口から見た釣り人を描いた生徒の話を聞いたことがあるけれども。面白いことを考えるクリエイターっていうのは、みんなひねくれてるんですね。

しばらくは、「からみた」シリーズで読書。

2011年1月26日水曜日

子供たちに80年代のテクノロジーを見せたらどうなる?子供たちに80年代のデザインを見せたらどうなる?



フロッピーを知らない子供たち、面白い反応。
さて子供たちに80年代のデザインやファッションを見せたらどうなるのだろう?
というのを誰かやってくれないかしら。



2011年1月25日火曜日

誰も知らない飛行機の秘密

オタクの人から聞く話しほど面白いものはない。
私は飛行機オタクの人から話しを聞く度に、ただただ感心してしまうのだ。


「輪切りで見ると、客室はちょうど上半分しか無いんだって。」
「へぇーそんなに荷物を積めてどうするの?」


「飛行機にはジェットエンジンに加えて、動力用のエンジンが後ろに付いているんだって。」
「確かに!お尻の穴からオナラが出ているのを見たことがあるよ。」


「燃料トラブルなんかで全てのエンジンが止まると、自動的にタケコプターみたいなのが出てきて、家一件分くらいの電力を発電することで油圧や無線をまかなうんだって。」
「なんというアナログ!でも、回っているところを見てみたいような見てみたくないような。」
(ラムエアタービンといって、実際に多くの命を救ったらしい)

むかーしメラネシアの人たちは飛行機が飛んでいるのをみて「神様の空飛ぶ乗り物」だと思ったらしく、白人達の飛行場を真似て滑走路をつくったり、木や草で飛行機の模型を作ったりして、自分たちの土地にも降りて来させようとしたそうだ。東アジア独特の「カーゴ・カルト信仰」(神様が文明の利器を満載して現れる)と関係あるのかもしれない、だとしたら日本も無関係ではないのだろうか?

一応、東京にも立派な国際空港をつくってみたところ、LCCやら何やらで沢山の飛行機が離着陸するようになったのだとか。しかし日本人は誰一人として、本格的な大型飛行機や戦闘機をつくることができない。できることといえばライセンス生産によって、白人の見よう見まねで似たような物をつくるくらい。あれ、これってどこかで聞いた話しだな。

ところで私個人の、エンジニアとしての飛行機に対する理解度というのは、メラネシアの人たちが飛行機に抱いた観念と、レベル的にはほぼ変わらない。なんで飛ぶかも良く知らないし(流体力学の単位は落とした)、どうやってあれだけ工数のかかるシステムを組み上げるのかも知らなければ(オペレーションズ・リサーチの単位はぎりぎりだった)、いかにあんな複雑なマン・マシンシステムが運用されるのかも想像がつかない。
唯一自分で設計できることといえば、通路側が良いとか、ビーフorチキンとか、たまにはビジネスクラスに乗ってみたいとか、そんなことくらい。

2011年1月24日月曜日

ブログやツイッターの普及により、 知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。

2011年1月10日 読売新聞朝刊
日本の改新 識者に聞く 山崎正和氏

もう一つ心配なのが、大衆社会がより悪くなることだ。ブログやツイッターの普及により、 知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。これが新聞や本の軽視につながり、 「責任を持って情報を選択する編集」が弱くなれば、国民の知的低下を招き、関心の範囲を狭くしてしまう。
ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある。
「知的訓練を受けていない人」っていう文書表現がなかなか,久しぶりに紙上でセンスある言葉を見たような気がする.内容はともかく言葉は光っている.さすが京都生まれの劇作家おじいちゃん,イキである.
ぜひ僕も受けてみたいな知的訓練.みんなで受けよう知的訓練.明日のデートは知的訓練場.


ところでコンビニでBrutusの特集「男の作法」を買ったら,田中角栄の言葉はやっぱりすごかった.チャーチルよりマルコムXよりすごい.
「みなさぁん 新潟県と群馬県の境に三国峠があるでしょ。あれをダイナマイトで吹っ飛ばすのであります。そうしますと日本海の季節風は太平洋側に吹き抜けて越後に雪は降らなくなる。出てきた土砂は日本海へ埋め立て佐渡は陸続きになるのであります。」
「田んぼの真ん中に,道路を1本作ると地価は倍になる.2本つくると4倍になる.それが地価の原則です」
めちゃくちゃだけど魅力があるのは何でだろう.やっぱり「知的訓練」のおかげ?

2011年1月23日日曜日

2011年1月22日土曜日

ブランドのロゴはなぜ高そうに見えるのか。GODIVA BVLGARI Lufthansa DEAN&DELUCA


米国の借金をテトリス風に表現した映像、イラストになった世界各国の地図

米国の借金をテトリス風に表現した映像



イラストになった世界各国の地図

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面白いですね.
ゲームもだけど、クールでオバカな文化は日本のお家芸なので,こういう良質なインフォグラフィックはもっとどんどん日本から出せるようにしようよ!と思った.

2011年1月21日金曜日

「美しい義足デザイン」のギャラリー

クロムめっき


クロムめっき、革、ハードウッド等を使ったクールなデザイン。米国サンフランシスコのBespoke Innovations社は、カスタムデザインで義足を作っている。
(wiredvision)

これが「美しい」かどうかは主観によるので別としても。「意匠デザインがなされていなくて当たり前」なものをデザインする、というのが良いと思いました。義足に限らず消火器とか、郵便ポストとか、ナンバープレートとか。

服に合わせて デザイナーインタビュー(動画) 製造過程 

義足人口 特注デザイン

不条理なリンゴについて。

いつの間にか、目の前に美しいリンゴがあった。
「それで貴様は、このリンゴをどうしたいのだ?」
フランツ・カフカのようなギョロ眼の外国人は
威圧的に質問してきた。
「絵に描きたいです」
とだけ答えた。
彼はその答えに不満そうだったので
私はさらにこう付け加えた。
「色々な角度から、色々な色をつかって」
すると彼は、右の唇だけでニヤリと笑うやいなや
<バクン!>
とそのリンゴを、丸喰いしてしまった。

リンゴはガラス質の作りものだったらしく
ギョロ眼の口はジャリジャリと嫌な音をたてながら
こんな言葉を吐き捨てた。

「まいったか この矮小ジャップめ!
おまえらが あれこれ絵空事をしている間に
とっくにこんな事になっているのだ!
家電から音楽から書籍まで全てだ」

そんな夢をみてから私は
リンゴに関係ある製品だけは
買わないようにしてきた。
特に表面がガラス質のものは苦手だ。

2011年1月20日木曜日

心理学者との対話(その7)~参考文献など

正月に読んだ本を元になんなく書いてみた今回のエッセイ、主観的すぎたのか長文すぎたのか、アクセスは下がる一方でした(笑)。
面白かった人も面白くなかった人も、以下は良本ばかりなので立ち読みしてみてください。



幻想の未来/文化への不満 は、言わずとしれた精神分析学者のフロイトが「文明」や「文明」について論じた古典らしい。学術的にどのように評価されているのかはよく知らない。読んでいくと、乱暴なまでに人間の原始的な側面があぶり出されて冷や汗もの。文化・文明において何らかの目的を持った創造的行為を行う人は、読んでおいて損は無いと思う。ちなみに人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトスでは、なんとあのアインシュタインとフロイトとの対話が繰り広げられる。アインシュタインは平和主義者だったのだが、自らの理論が原子爆弾を生んでしまうという矛盾に悩んでいたのかもしれない。究極の科学者と精神分析学者によって、科学と倫理と人間心理の狭間を行ったり来たりさせられるジェットコースターのような本。ただし、文字が小さくて長いので時間のある人におすすめ。ひたすら脳をかき回されます。


上記二冊は内容が強烈すぎて、読書慣れしていない人が読むとヘコむかもしれない。そんなときはフロムの愛するということがおすすめ。フロイトの考えを引き継ぎながら、より社会的な動物として生きてゆくための「愛」という観念の重要性について説いた本。解毒剤です。
ちなみに心理学の単位をとったことが無い人は、我妻先生の社会心理学入門〈上〉 (講談社学術文庫)が、ありえないほどわかりやすい。大学の講義なんて聞かなくても良いかもしれないくらい。上下巻セットでどうぞ。フロイトはもちろん、ゲシュタルト心理学や対人関係の心理学は、実はけっこうプロダクトデザインや情報デザインと関連が深いです。


ラ・ロシュフコー箴言集 (岩波文庫)は、あらゆる有名思想家の逆鱗に触れるのを得意としたロシュフコーの集大成。読むとわかるが、権人間の高慢から美徳まで、ありとあらゆる行為を野次りながら、面白おかしく散文にしている。自意識やナルシシズムに関する話しも多いので、デザイナーが読んでも面白いかも。有名なパスカルの「パンセ」(人間は考える葦である、とか)よりも刺激的。ズキっとさせられるお気に入りの文書が見つかりますように。


現代デザインについて深く考察している本は貴重だと思う。一番良かったのは嶋田厚さんのデザインの哲学 (1978年) (講談社学術文庫)だが、これはもう絶版になっているから中古でどうぞ。もくじだけ示しておきます。

第一章:機械と有機体
  • インダストリアル・エイジの開幕
  • 人間/自然/有機体
  • 聖なる秩序
  • 機能主義の源流
第二章:芸術と社会
  • デザインの先駆者
  • ラスキンからモリスへ
  • 芸術の大地
  • 機械の意味
  • モリスの社会主義
第三章:模写と構成
  • 象徴派の源流
  • 音楽への憧れ
  • 抽象芸術の意識的創造
  • 近代絵画の開幕
  • 模写への疑惑
  • 抽象への飛躍
第四章:芸術を超えて
  • 伝統的リアリティからの決別
  • 未来派の歴史的使命
  • 革命と構成主義
  • 建築に向う絵画
  • 近代デザインの確立
  • バウハウス
第五章:環境の変貌
  • 大衆社会の出現
  • インダストリアル・デザイナーの登場
  • 自由放任の終焉
  • 打ち寄せる技術革命の大潮
  • シンボルの氾濫
  • 虚構としての生産哲学
第六章:デザインの課題
  • 計画時代のデザイン
  • 具体的世界への反省
  • 二つの環境
  • 世界の共有
  • 「参加」を求めて
  • 具体的世界の護民官
これだけみても明らかなように、良くあるようなデザイン歴史本ではない。いったいデザインという活動がどういう動機で始まったのか、芸術との関係、モダンデザインがどのように成功し、社会変化とともにねじれ、失敗し、そして我々がそこから学ぶべきことは何か、ということを考えさせられる、いわば宿題をいっぱい突きつけられる本。後半はサービスデザイン、ソーシャルデザインや人々のインクルージョンなど、いわばデザインの現代的な可能性を想像させる文も散見され、これが昭和53年に書かれたことが驚き。
似たような本に現代デザインを学ぶ人のためにというのがあるが、これは色々な人が書いているのであんまりまとまりが無い気がする。

もっともっとパンチの効いたデザイン批判を読みたい人は、柏木先生のモダンデザイン批判をどうぞ。デザインが大好きでしょうがない人が、デザインについて考えに考え、調べに調べた結果、それが及ぼした人間社会への影響、文化への大罪に失望してしまった、でもやっぱりデザイン好きだなぁ、どうしようどうしよう。という感じの代物で、個人的にはすっごく共感。ある意味で、20世紀までのデザインについて一区切りするための本。ただし読んでも結論は何も出てこないので、ちょっとした「たしなみ」だと思えば良い。
川崎和夫先生の「デザイン救世論(PDFが別ウィンドウで開きます)」にある、
今のデザインは「売る」ための手段、つまり欲望の刺激. 装置になり果てています。
というセンスのあるナイスなセンテンスも、20世紀的なデザインに嫌気がさしている徴候をうまく言い当てていると思う。逆に、若い人にはどれも当たり前すぎるのかもしれない。そのあたりも議論してみたいところ。

あと、マニアックなのが良い人は、デザイン・映像の造形心理あたりはいかがでしょう。人気が無いので値下がりしていて、今見たら「1円」だった。後半にフロイトの芸術感とデザインの関係などが論じられていて面白かったです。

2011年1月19日水曜日

心理学者との対話(その6)~あとがき

一連の対話は、1937年ごろ、精神分析学者のジークムント・フロイト氏が晩年、ロンドンに亡命しながらも精力的に活動していた学会において、異分野の人を招いて開かれた特別セッションの一部始終です。その後、建築・工業デザインの分野に大きな足跡を残すことになる新進気鋭のデザイナー、アッキレ・カスティリオーニ氏と、当時既に発明家として知られていたトーマス・エジソン氏がアメリカから招かれました。
英語、イタリア語、ドイツ語の通訳を介してのややこしい議論にも関わらず、やがておとずれるモダンデザインの潮流やコンピュータ革命、そしてエンジニアリングとデザインの融合について示唆に富む発言が見受けられる。

というのはもちろん真っ赤な嘘ですが、地理的にも精神的にも離れていたこの3人が、一瞬だけ同じ時代を生きたというのは事実です。もし戦争が無かったら、こんな対話が実現していたかもしれません。もちろん、もっともっと深い内容だったとは思いますが。

このところ若いデザイナーから、「思い通りのデザインが出来ない」という嘆きを聞くことがあります。日本のデザインがスタイリングの時代を完全に卒業してしまったからでしょう。彼らの口から出るのは、中国とかインドとかの新興国、ある意味でのデザイン発展途上国の話しです。
日本人がどんどん海外に出て啓蒙・活躍するのは喜ばしいのですが、やっぱり「美しさの基準」が違うから、突き詰めると現地の人に負けちゃうのではないかと思います。賢い人はそこも見抜いた上でデザインしますが、「理性では納得できるけど感性では納得できないなぁ」といいながらフィニッシュすることが多いように思います。これもまた悩みの種なのです。

一方で、一通りデザインによる自己複製を終えた年寄りのデザイナーというのは、あっけらかんとしています。スタイリングという自己複製は、ある程度繰り返すと、どこかの時点でそれに飽きてしまうようなのです。それは人によっては、「老い」から来ることもありますが、一般に彼らは高度成長とバブルを経て、自己複製という快楽の頂点に達したということができるでしょう。
そして、スタイリングに飽きた自分と、消費社会を卒業しつつある日本との偶然の一致に満足しています。この恍惚感こそが、「あっけらかん」の原因です。

たまったもんではないのが若いデザイナーです。若いデザイナーは自分の肉体や精神が大好きで仕方ないし、それをもっともっと自己複製したいのです。オレの良質なソウル、私のハイセンスなマインドを、建築やプロダクトやグラフィックやWebやアプリケーションの形で表現して、趣味の良さを世界中の人に見せびらかしたいのです。自分中心設計です。これは、ごくごく正常で健康的な欲求だと思います。
しかし、さんざんっぱら自己複製をしてきた大先輩のデザイナーがたは、それが幼稚な事であるという批判を(自らへの反省を兼ねて)押しつけてくるのです。そしてちらっと社会の側を見てみれば、なるほど確かに、もはやそういう時代ではないことが明らかなのです。

ベンヤミンという人は、作品の大量複製によって芸術家の「オーラ」(アウラ)のようなものが消失するのではないかと危惧していたようですが、実際のところオーラの消失に変わって蔓延したのはデザイナーの「顔」だったように思います。その大量「自己」複製時代は静かに幕を下ろしつつあり、今、我々は新しい情念の「注ぎ込み先」を探しています。
デザイナーが、エンジニアリングのような無味乾燥で冷徹な世界に興味を持つのも、異分野の融合や学際が叫ばれるのも、 BS 7000-6:2005で示されるようなインクルーシブデザインの方法論がもてはやされるのも、そういった心の働きが関係しているのかもしれません。
いろいろな情念はすべて血液の熱さ冷たさのいろいろな度合いでしかない。
(MS2 564 ラ・ロシュフコー箴言集)
という散文がひょっとしてデザインとエンジニアリングについて語っているとするならば、世界最先端の変革期にある日本人は、相反する両者を「かきまぜたい」という気持ちになっているのではないでしょうか。
このエッセイは、何となくそんな期待感と閉塞感の狭間にある人たちに読んでもらいたくて書きました。自分がどうしてデザインしたいのかを正直に見つめること、つまりデザインを哲学することは、自分を理性的に強くし、精神的に武装してゆくことにつながると思うのです。
若いデザイナーにとって、これからますます大変な時代が訪れます。純粋に「デザイナー」という職業名を持つ人は、10年後には半分以下になるでしょう。しかしデザインしたいという欲求は素晴らしいことだし、その精神的なエネルギーの沸き上がりは決して誰にも邪魔できません。問題は、そのエネルギーをどこに注ぎ込むか、ということだと思うのです。

2011年1月17日月曜日

心理学者との対話(その5)~デザイナーとエンジニアの境界問題

心理学者
今回のお話は大詰めを迎えようとしています。まず最初に私は、お二人に対して「なぜデザインするのか?」「なぜエンジニアリングするのか?」ということをお尋ねいたしました。それに対してお二人からは、「社会に貢献したいからデザインする」「産業を発展させるためにエンジニアリングする」というようなお答えをいただきましたが、残念ながらこれらは本質では無いと言わざるを得ません。深層心理の中では、もっと原始的な欲動、すなわち肉体的な生殖や、精神的な生殖をうまく昇華させて、仕事に熱中できているのではないかと思うのです。
一方で、「社会に貢献したいからデザインする」「産業を発展させるためにエンジニアリングする」という一種の観念はどこからくるのでしょうか?それは、あなた方の仕事を社会の側から客観的にみたときに、結果的に「そのように振る舞っているように見える」、という事に他なりません。ほとんどの人は、自分の行動の多くを決定する「無意識の働き」について全く関心を示しません。それどころか、自分の深層心理を意識的に無視して、周囲の同意を得られやすいような、稚拙で思いつきの理論によって説明しようとします。つまり、「自分は原始的な欲動に従って生きる野蛮な生き物ではなく、このように社会的な目的性を持って合理的に振る舞う知識人なのである」ということをアピールしようとするのです。
もちろん全ての物事がうまく行っていれば、それで良いのです。しかし人間は長い人生の中で、様々な壁にぶつかります。デザイナーが自己複製した商品は時代に合わず、顧客や市場に受け入れられないかもしれません。エンジニアが身体を失った結果、社会にとって害悪となるような技術を生み出してしまうかもしれません。そして何よりも、デザインとエンジニアリングという、あらゆる人工物をつくる上で本質的に重要な分野が、お互いに何らの関わり合いもなく、デザイナーとエンジニアとの連携もつながりも無い状態のままではいけないと思うのです。

エンジニア
そのうち産業にも、成長の限界がおとずれると思います。それを乗り越えるという経済学的な観点からも、あるいはまた人間的で豊かな科学技術を生み出すという幸福論的な観点からも、エンジニアとデザイナーの協働というのは今後重要になるでしょう。
しかしながら、我々が普段から何となく感じていたように、また今回ジークムント氏によって分析されてしまったように、エンジニアとデザイナーというのは、全くをもって異なる人種なのです。欲動という名の人間共通のエネルギーがあるとするならば、エンジニアとデザイナーとでは、その受け皿が全く別なのです。ですから同じ仕事をする上で、心底共感し合うことができないのではないかと思います。これについて、我々は何か解決策を持てるのでしょうか?

デザイナー
今のご指摘は近年、無視できない現実的な問題となりつつあります。その一つが建築です。建築家というのはだいたい、建築物によって恒久的に自らの思考を人々に押しつけようとします。だから彼らは、より大きく、より沢山の人が出入りし、より長持ちする建築を目指します。自分のつくった導線に従って人間を出入りさせ、人々を歩かせ、自分の決めた場所で用を足し、食事をして、睡眠させます。これによって、自分の精神をより長期にわたって、より沢山の人々に、分け与える事ができるのです。これは非常に危険なことで、一つ間違えると暴力になってしまいます。
建築のように、最新の技術を駆使し、制作と廃棄に多くの材料とエネルギーを必要とし、人々の眼だけでなく身体に直接的かつ長期的に働きかけるような人工物の制作作業というのは、ある意味で文明社会の象徴だと言えないでしょうか。このような創造的活動においては、建築家、デザイナーそれからエンジニアといった人々の協調が必要とされると思うのですが、今のところこれらの専門分野は官僚的に細分化されており、その専門化と深化は進むばかりのようです。



心理学者
ドイツの哲学者でアルトゥール・ショーペンハウアーという人が、「ヤマアラシ(ハリネズミ)のジレンマ」という有名な寓話を発表していますね。
寒さに震える2匹のヤマアラシが居て、お互いを暖め合おうと近づいたが、近づけば近づくほど、自分たちの針でお互いを傷つけてしまう。そこでヤマアラシは、近づいたり離れたり、色々と試行錯誤を繰り返しながら、お互いを傷つけ合わず、けれども暖をとれるような、適切な距離を見つける。
というような話しです。これは、異なるエゴを持った人間がコミュニケーションをとろうとしたときに必ず発生する葛藤と、それに対する対処の方法を示唆していると思います。ヤマアラシが適切な距離を見つけるためには3つの段階がありますね。
1つ目にはまず、「痛み」が必要です。痛みを感じないと、気づかないうちに針を差し合ってしまいます。デザイナーとエンジニア、あるいは建築家といった人たちが近づき合う時には、啀み合いや生理的な嫌悪感というものが必ず発生します。この痛みは、決して悪いことではないのです。それは適切な距離を測るための感覚器だと考えてください。
2つ目に必要な段階として、「自分の針の長さを知る」ということが挙げられます。これがわからないと、適切な間合いを知ろうにも、どこまで近づけば相手に突き刺さってしまうのかがわかりません。つまり、自分自身を見つめることが大切なのです。そのためには自分の持っている欲動について、より本質的な観点から内省し、哲学することが役立つと思います。
3つ目には、適切な距離を見つけるための試行錯誤が行われます。これは行ったり来たりの繰り返しになりますが、「痛み」を十分に味わって、「自分の針の長さ」を知っていればこそ、いつかは適切な距離というものを知ることができるのではないでしょうか。

デザイナー
エンジニアとデザイナーは、近づけば近づくほど、相手がより奇異に映ってしまうような存在だと思っていました。時にはその奇妙な感覚を乗り超えて、時として互いに衝突しながら仕事を進める必要だということですね。もちろんこれはエンジニアリングやデザインに限らず、ありとあらゆる性格、職業、人種、異なる文化や国を超えて仕事をする上で必要とされる知恵なのでしょうね。
今回はエンジニアとデザイナー、あるいは建築家といった、ある意味では非常にエゴや自意識の強い人たちが、いかに協力して仕事を進めることができるか、という事について、非常に実り多い議論ができたと思っています。どうもありがとうございました。

エンジニア
正直に言いまして、私はお金儲けが大好きです。お金儲けのためだったら、ライバルを徹底的に痛めつけます。これは、私の住んでいるアメリカをはじめとして、多くの国においては正義そのものです。アダム・スミスの国富論の中で、
我々がパンや肉に不自由しないのは、彼らが慈悲深く、世のため人のために人肌脱いでいるからではない。彼らが自分たちの利益を追求し、できるだけ多くの金を儲けようとしているからである。
という一節がありましたね。しかし今私は、この一節では少し説明が足りないのではないかと思うようになりました。付け加えるならば、
そして私が自分たちの利益を追求し、できるだけ多くの金を儲けようとしているのは、単に金が欲しいためだけではない。自分の原始的な欲動を満足し、社会の中で認められる何らかの意味ある活動として表現したいためである。
ということでしょうか。こう考えると、人間というのは動物のように素直で、子供のように創造的な、じつに可愛らしい生き物であると思えるようになるのです。今日は良い話しをいただき、どうもありがとうございました。

2011年1月16日日曜日

今年の初夢を告白


宇宙船から降りてきたヒゲモジャ星人に突然こう尋ねられた。
「デザインノ効用ヲ 5ツ答エナサイ。」

「タダシ最後ハ全部【ク】デ終ワルコト。」
困ったな、思いつくままに挙げてみよう。
感触、快楽、装飾、、、
あと2つは何だろう?
「答エハ、感触、快楽、装飾、暴力、スタルク。」
よく見たらヒゲモジャはフィリップ・スタルクだった。
乗っていたのは宇宙船ではなくレモン絞り器。

2011年1月15日土曜日

成人の日の社説がウザかった件

閑話休題.

皆さんは、どの社説が一番ムカっと来るでしょうか。以下に抜粋してみました(太字などはテラケイが行いました)。

"君たちは"上から目線の新聞社(別ウィンドウで開きます)

各紙の社説に共通するのは、「上から目線で」「内向きだと決めつけ」「現実から目を背けるな」という点ですかね。このように、根拠なく決め付けているだけでなく、自分のことを棚にあげて、明らかな安全地帯から煽っているのも、読者をイラつかせるスパイスとして効いているようです。あと、こんな素晴らしい激励文なのに署名がありません。(テラケイ)

てっきりジョークネタかと思ったら,どうやら本当らしい.
近頃の新聞の文書って本当に稚拙だとは言われていますが.さすがに外注はしていないであろう社説でさえ,高校生の小論文レベルの問題意識しか無いとなると(いやそれ以下か)...
ちなみに,日経だけはまともでした.

2011年1月14日金曜日

心理学者との対話(その4)~科学技術という名の渇望について


バベッジと彼の階差機関、現在の全てのコンピュータの原型。

心理学者
後半は科学技術、すなわちサイエンスとエンジニアリングについてお話ししたいと思います。トーマスさんは、エンジニアの美意識について「仕掛けの道理が通っていて説明可能なもの」「複雑な創造物でありながら、その思想が明快でシンプルなこと」というような表現をされていましたね。
こうした執着というのは、エンジニアに共通のものなのでしょうか?

エンジニア
それはそれは相当なものです。私の尊敬する偉大な発明家で、イギリスのチャールズ・バベッジという人がいるのですが、彼は階差機関という、人間が解けないくらい複雑な計算を一瞬でこなしてしまう機械をつくろうとしていました。とても美しい機械で、理論そのものが仕掛けとして具体化しているのです。今で言うパンチカード計算機の原型でしょうか。将来、電気を使ってこの仕組みを高速化すれば、全数学者でも太刀打ちできないくらいの能力を持つ計算機をつくることだって可能でしょう。
私たちエンジニアはこういった美しい機械に心底関心しますし、良く出来た仕組みを見つけたときは感動するものです。エンジニアが「仕掛けの道理が通っていて説明可能なもの」「複雑な創造物でありながら、その思想が明快でシンプルなこと」を渇望するのは、そのようなものであれば論文としてまとめたり、機械として実装することができるからではないでしょうか。
しかしそこには、デザイナーが望むような肉体の「自己複製」という感情は全く無いように思うのですが。エンジニアは自身の肉体を複製することに興味が無いのです。おそらく、自分の顔や体にはあまり興味が無いのかもしれません。ただし、その体や生理作用がどのような仕組みになっているのかに興味がある人は大勢居ます。

心理学者
おそらく、論文としてまとめたり、機械として実装することで、エンジニアは自己の「精神」を複製しているのだと思います。人間が本質的にどのような生き物であるかは、古くから人々の興味の対象でした。紀元前300年代ごろに、古代ギリシャのプラトンという有名な哲学者が」「エロース」、すなわち人間の根源的な欲求の一つである「不死の欲」について語っています。プラトンによれば、エロースとは「肉体的生殖」と「精神的(心霊的)生殖」という2つの種類に分けられるというのです。前者の「肉体的生殖」といいますのは、子孫を残すことや、デザイナーのように自らの身体を自己複製することが当てはまると思うのです。そして後者の「精神的生殖」といいますのは、教育や書物によって他の人に自分の考えを植え付けることによって、精神を伝搬する行為だということができます。そして科学技術的な発明や論文、機械の製造や実装という作業は、後者の意味でのエロース、すなわち精神的な生殖作業であると説明することができないでしょうか。
エンジニアが憧れる「仕掛けの道理が通っていて説明可能なもの」「複雑な創造物でありながら、その思想が明快でシンプルなこと」というのは、いわゆる人間の肉体的な生理作用とは真逆の現象です。すなわち言い換えるならば、あなたがエンジニアというのは、永遠に叶えられない機械的な「美」を是認し、それを追い求めると共に、そのような未来永劫叶えられることのない究極的な「恋愛」に夢中になっている自分自身に陶酔するという、いわば変質した錯倒的なナルシシズムの姿だと言うこともできます。

エンジニア
デザイナーが自らの作品を貶される事を、まるで「子殺し」の如く嫌悪するのと同様に、エンジニアは自らの理論や考えを貶される事を恐れます。そこには確かに、精神的生殖とでもいうべきエロースの作用が働いているのかもしれません。
もしそれが正しいのだとすれば、今後の科学技術の発展というのは、次のような様相を呈するのではないでしょうか。すなわち、エンジニアリングというのはより肉体的で不確定な要素を廃棄し、精神的で概念化された方向に進むのではないでしょうか。今でこそバベッジの階差機関のように、機械というのはその姿を物理的に保っています。しかしながらそれは近い将来、全く透明(calm)なものとなり、究極的には、人々は機械の外観を全く意識せず、その機能的な作用のみに注目するような時代がやってくるのではないかと思うのです。まるで雲(cloud)をつかむかのような話しではありますが、そうした身体の消失というものが、そう遠くない将来やってくるような気がしています。

エンジニア:身体から脳を切り離し、観念を共有することに快感を覚える人たち。エンジニアの脳と脳は記号化されたコミュニケーションによって結びつき、彼らのヒエラルキーは「脳化の度合い」によって評価されてしまうのだろうか?

心理学者
その予測はおそらく正しいでしょう。多少失礼な表現かもしれませんが、エンジニアというのは「身体を喪失することに快感を覚える人たち」ではないかと思うのです。そこには、決して生身の人間がたどりつくことの出来ない完璧な仕掛けの表現物である「あやつり人形」を愛するという、そして、その永遠に叶うことのない愛を求める自分自身に陶酔するという、若干変質したナルシシズムを見とることもできます。もちろん「あやつり人形」というのは比喩ですから、人によってそれは鉄骨の構造であったり、数式であったり、化学式であったり、骨であったり、バベッジのようなメカニズムへの執着であったりと、様々な形をとるでしょう。
より機能的で、観念的で、機械的で、理論的な何かによって、世の中の役に立つ仕掛けを考案することが、エンジニアのヒエラルキーを決定しているのだとすれば、そこには手足を失って自らの身体を放棄するエンジニアの姿、脳だけの化け物となった姿をみることができるのです。そして彼らの評価は、「どれだけ身体を捨てることが出来たか」によってもたらされます。従って彼らの生きるための糧とは、より理性に訴えかける提案、機能的で形式的な革新性、形而上学的でメタレベルの観念、人々の精神的レベルにおいて伝搬するカリスマ性、などに見いだすことができるのではないでしょうか。

自己愛はしばしば自分自身にも見えなくなり、知らぬ間にあまたの愛情や憎悪を孕(はら)み、養い、育てる。しかも実に醜怪きわまる愛や憎しみを作るから、産み落とした時にわが子とわからず、もしくはわが子と認める決心がつかない。自己愛を包み隠すこの夜陰から、自己愛が己れ自身について抱く滑稽(こっけい)な思い込みが生まれる。己れに関する過誤、無知、粗野、愚味がそこから出てくる。

自己愛の趣向こそが対象を上等に思わせる値段であり対象を美化する化粧である、つまり自己愛は自分自身を追いかけているのであって、自分に好ましい物を追求している時も、自分の好みそのものを追求しているのだ、ということが出来よう。

(ラ・ロシュフコー箴言集「削除された箴言MS1」より抜粋)

エンジニア
まぁ、確かに。デザイナーがいわば「身体の化け物」であるとするならば、エンジニアとは「体の無いユーレイ」のようなものなのかもしれませんね。デザイナーとエンジニアが切磋琢磨する背景には、何か心理的なエネルギーによる大きな働きがあるということは、薄々感じてはおりました。しかしそうなると、科学技術の発展を考える上で大変気になりますのは、「エンジニアリングとデザインの融合」という観点です。
といいますのも、エンジニアリングというのは、デザインの助け無くして発展することができないからです。未だに多くの人が認識していませんが、残念ながら科学技術というのは、人間そのものについては何も説明できないのです。何百もの発明をしてきた私が言うのもおかしな話しですが、こと人間の感情や感性については、いくら科学技術が進化したところで、未来永劫、これっぽっちも理解できないのではないかと思っています。エンジニアが人間的で肉体的な関わり合いについて無興味でいるのは、結局のところ科学技術は人間について全く説明が出来ないから、という理由によるのかもしれません。