学窓から戦場へ
私が調布市の電気通信大学というところに通っていたときは、8月15日の正午に必ず黙祷のサイレンが鳴っていた。今は、そこからちょっと離れた三鷹市で仕事をしているけれど、残念ながらそのサイレンは聞こえない。
先日、同窓会のつくった「学窓から戦場へ」という小冊子をみて、先輩たちのすさまじい生き様を知った。
(昭和20年卒業生の手記より抜粋)
- 殴られることにも、少しは堪えられるようになっていたが、辛く苦しいことばかりで、「志願をしてくる馬鹿もある」と歌われる歌が現実であることに切ない思いをしたのを覚えている。しかしお国のためだ、戦争に勝つためだ、と自らに言い聞かせ、頑張った。今にすれば、ただ気力だけの日々であった。この事は戦後60年経った今も、気力だけは人に負けない心算であり、戦争の苦しいときも、今現在もこの気力で生きているような気がしている。
- 一ヶ月ほどの初年兵教育を受け、北多摩通信隊の中にある陸軍中央通信調査部高速班に配属になった。大きな通信機がずらりと並び、モールス信号の音が高速のため、トロロトロトロとしか聞こえず、さっぱり解らない。こんなことが今の俺にできるかと、唖然としていた。今日は見学だけで明日から勤務に就けとのこと。死ねと言われるほうがまだましだと思った。
- グアム島から送信される米軍の全艦隊向け放送電報を取ることになった。大阪を空爆したとか、日本の艦船を何処で沈めたとか連日そんな情報を傍受していた。月曜日はグアム島の米軍は日曜日になるので、一日中電報は送信されず自符がでていた。「NPMツートントツーツートンツーツー」今も記憶から離れることはない。日本では月月火水木金金と日曜日など忘れていたのに、日曜日に休んでいる米軍の余裕に脅威を感じた。しばらくして7月25日真夜中、ポツダム宣言を受信し、所内にざわめきが起きた。その日の夕方、隊長が自決されたと知らされた。
電気通信大学では、その90年の歴史を電子化しようというプロジェクトがあり、少しずつではあるが昔の卒業アルバムや手記などがネットで公開されている。以前、不時着したB29を国領の人が見たときの記録で、戦争体験を可視化するコンテンツの必要性について書いたけれども、卒業アルバムの電子化というのはとても訴求力が強いように思う。
ところで東大卒の友達にこの事を話したら、工学部の校舎を立て替えるときに、「造兵学科」なる看板が出てきて仰天したという。無線、機械、化学など、いわゆる理工学系のアカデミズムと戦争とが、今よりも密接にくっついていた時代ならではの話しである。反省とか教訓ではなく、先輩たちの生き様に対して、ある種の感慨をもって眺めたいと思う。