An Introduction to Speaks4Me from ATT-Videos on Vimeo.
2010年4月30日金曜日
自閉症の我が子のためにコミュニケーションシステムをつくった父親
私の「情報感動世界」
- 大人になってから、仕事で「感動」したことってありますか?
みなさんなら、どう答えるでしょうか?
私はエンジニアなので、よく企業パンフレットに書いてあるような「お客様からアリガトウと言われたときがシアワセです」といった経験が無い。
IT系の仕事って、そもそも怒鳴られることはあっても、有難がられることなんて無いんじゃないだろうか。
個人的に感動する瞬間があるとすれば、「コンパイルが通ったとき」だろうか。
(コンパイラを知らない方へ:「プログラム」を書くことだと思ってください)
複雑なシステムが何億ステップもの処理をこなし、無事にカーソルが戻ってきた瞬間、あれは幸せだ。
あとは、、、
データセンターに入ったときに、自分達の作ったシステムがちゃんと動いていて、LEDの点滅の先に流れる情報の世界をみたとき。
かな。
とてもじゃないけど、デザイナーには説明できない世界だ。
つくづく思うこと。
情報に色は無い。音も立てない。ただただ無機質な仕掛けだけが、そこにある。
それを「美しい」という言葉で表現することもできるけれど、「美術」のいうところの美しさとは全く反対のものだと思う。
このあたりで卑怯な言葉に、いわゆる「機能美」というのがある。これは、
- 機能性の高いものの中には、美術的な鑑賞に値する要素があること
あれは機能美ではない。
コンパイルしたときの感動は、どう言えばいいのだろうか。
仕組みそのもの、機構・構造に対する愛の感情に相当する言葉は無い。あえて言うなら、「情報感動世界」だろうか。
2010年4月28日水曜日
ストイックなまでの生活

- カラダの輪郭とは、おぼろげなもの。
- 抱っこされたり、撫でたり、服を着ることで確認できる。
生活も、そういうものじゃないだろうか、と思った。
そもそも文化とか、倫理とか、およそ社会で定義されている行動規範のほとんどは、われわれが思っているほど意味はない。日本人の行動が外人からみると奇異なものに写るのも、そのせいである。ただ単に、文化を守って貫くことだけに意味があり、文化そのものには意味が無いのだ。だから逆に、文化とか、倫理とか、社会正義を振りかざす演説家がいたとしたら、そいつはアヤシイ。
さて日本の伝統というのは、文化の記号的側面に頼る部分が強いのだろうか。茶とか、独特の正義感とか、旧来の日本家屋のストイックなまでの生活をみていると、そう感じる。だいたい正座するのは痛いし寒いではないか。
もちろん、だからといって、全てに対して無法で、無防備で、無関心であることが自由なのか?というと、そんなわけはない。全てが快適でぬるま湯にひたっていると、自分のよりどころがなくなってしまう感じがする。
- 文化の輪郭とは、おぼろげなもの。
- インテリアをデザインしたり、学校や会社に行ったり、服を着ることで確認できる。
手順(プロシージャ)としての美意識というのが、そこにはあるのでしょうか。
とある職人さんの手仕事を見ていて、そんなことを思いだしました。
2010年4月27日火曜日
麦わら帽子のイエス・キリスト
Yr(イア)先生はご近所さんだ。
高校時代の木工の先生である。
休日に家でごろごろしていると、ママチャリに麦わら帽子の出で立ちでセッセとやってきて、エホバの証人の話しをしていく。
「私は理科系の大学を出てしまい、すっかり無神論者になってしまいました」といっても、
「いやいや誰にでも欠点はありますよ」とやさしく宥めてくれるのである。
Yr先生は物知りで、特に木について色々教えてもらった。
良い先生だし、別に高価な壺を買わされるわけでもないので、なるべく足を止めて話をするようにしている。なんせ私の家と会社が近いもので、通勤途中や会社帰りとかにも、Yr先生にしょっちゅう出くわすのである。我が家と、Yr先生の家と、高校とは、きれいな正三角形をなしている。私はこの小さな正三角形の中でほぼほぼ、これまでの33年の人生を歩んできたといって良い。
ついでにいうとYr先生の家は、木工作家らしく手作りのログハウスだ。ログハウスの外壁は、油絵の具ですっかりカラフルに塗られていて、一つの絵画を見ている気分になる。しかもその絵画は、まるで東洋とも西洋ともわからぬ不思議なものになっている。というのも庭先には、古い武蔵野を標榜するかのように、とてつもなく大きな松の木が生えているのだ。このあたりは江戸時代、壮大なる松林だったようで、そのころの名残なのだとか。
そういえばジブリ美術館の周りにも、不釣り合いなほど立派な松林があるではないか。パステルカラーの漆喰で塗られてメルヘンチックなファサードを持つジブリ美術館は、正三角形の真ん中、すなわち重心のところにある。あそこは私の通勤路になっていて、開館に合わせて中国人と韓国人の観光客が行列をなしている脇を、これまた不釣り合いなスーツ姿の自転車ですり抜けながら通勤するのである。
ああ、不釣り合いなのはジブリの方かもしれない。屋上に突っ立っている作り物の巨神兵が見ている先には、いつもひときわ立派な松の木が聳えているではないか。毎日みているから、いつのまにかその滑稽さに鈍感になっていた。松の木が生えたラピュタなんて、あるだろうか?
そういえば4月1日の朝に、汚らしいチェックのネルシャツを着た出っ腹のオッサンが巨神兵の横によじ登って、右手に持った金ピカの美しい鐘を何度も何度も気が狂ったように鳴らしていた。あれは自分が天使か創造主だと思い込んだ誇大妄想のアニメオタクだと思ったのだけれど、今考えれば、宮崎駿その人だったのかもしれない。
松の木と、駿と、金ピカの鐘。
松の木と、駿と、金ピカの鐘。
松の木と、駿と、金ピカの鐘。
閑静な住宅街の道ばたで、先生はいつものように黙々と説教を始めた。
「石垣さん、イエス・キリストがどうして悲惨な死を遂げたか知っていますか?」
「残酷なストーリーの方が、布教する上で都合が良かったんだと思います」
思わず口から理系的な正解をこぼしそうになりながら、先生への敬意から「いいえ、知りません」とだけ答えた。
「イエス・キリストはね、石垣さんの為に死んだんですよ!」
麦わらの初老がスーツ姿の教え子に、なにやらただならぬ事を説教している。近隣住民の空気が凍り付き、おだやかな春の住宅街に、「石垣さんの為に死んだ!」の声が何度もこだましたような気がした。小さな正三角形の面積はその吹き出しでいっぱいになってしまい、もはや逃げ場を失ったかのように思われた。
先生は、その一撃が「決まった」のを悟ると、ふだんあまり見せない得意げな表情をして、いかにしてこの世の終末が恐ろしいものであり、そのための精神的な準備をしなくてはならないかを蕩々と説くのであった。
私はその、自分が置かれたあまりにも滑稽な状況から抜け出したくなった。そして金ピカの鐘を持ってジブリ美術館のてっぺんに登り、松の木に向かって思い切り鐘を鳴らしてみたくなったのである。
2010年4月26日月曜日
奴隷と主人について。
ずいぶん昔に、奴隷というものは居なくなってしまったわけだけれども。破壊された奴隷制度というのは、粉々に砕け散った無数のカケラとなり、我々の心の中に小さく深く突き刺さっているようだ。
何の話しかというと、労働の話しなのです。
デザイン好きがなるべき職業
これは、愚問だろうか?コンピュータ好きがなるべき職業は、コンピュータエンジニアである。
では、私みたいに「デザインが大好き」な人たちはどうしたら良いのであろうか?デザイン好きが全員デザイナーになろうとしたら、たまったもんじゃない。なぜかというと、この国で、独立してデザイナーとして生計を立てられている人というのは、たったの2万人かそこらしか居ないからだ。これは、例えば国内の弁護士の数に等しい。弁護士は大変な参入障壁と特権が与えられているが、デザイナーにはどちらもない。だからこそ、デザイナーは日夜、野性味溢れる熾烈な過当競争にさらされている。
これから就職活動をする人に
何が言いたいのかというと、「デザイン好きはデザイナーになるべきではない」という事を言いたい。本当にデザインが好きで、一生飽きることの無い幸せなデザインライフを送りたいのであれば、
- デザインを発注する側の立場になる
奴隷と主人
会社組織の主人である取締役会は、例えば執行役員という奴隷を使う。執行役員は部長とか幹部を奴隷として使い、彼らは課長や係長などの中間管理職を奴隷として持つ。中間管理職は平社員という奴隷を操り、平社員は外注先を奴隷として使う。彼らが顧客としてある会社の商品や株を買ったとき、彼らはその会社組織の主人になることができる。こうして、主人と奴隷の関係性はグルグルと循環している気がする。
現代の奴隷制は、もちろん本当の奴隷制ではないから、奴隷と主人は、お互いの人間性を認め合っている感じだ。社員はカリスマ社長を憎みながらもどこか尊敬しているし、いつでも嫌われ役の臭いオッサン中間管理職であっても、周囲は何とか打ち解けようと必死である。
最近、その関係にねじれが生じて、お互いに尊敬しあえない奴隷制、というのが発露している気がする。例えばクレイマーは、頭の痛い問題だ。消費者(奴隷)は、主人(製造元)から与えられる恩恵以上の物を要求するし、主人の人間性を認めていない。逆もまたしかりで、主人はクレイマーなんて消えて無くなれば良いと思っている。
さてデザイナーはどうだろうか。デザインに何かを期待するクライアントが、このところめっきり減っている。ひょっとしてデザイナーとは、製品に味付けをするだけの交換可能な部品だと思われていないだろうか。クライアントはデザイナーを機械部品だと思い、デザイナーはクライアントを「デザインのわからない馬鹿者」扱いしている。
デザインへの理解があり、新しいデザインに挑戦的で、やりがいのある仕事を与えてくれて、ひいては日本のデザイン界の躍進に貢献してくれるような理想的主人としての人材、すなわち「デザイン好きの発注主」が増えてくれる事を祈って、もう一度言いたい。
- デザインが好きな優秀な人は、どんどんデザインを発注する側の立場になってください。