- カラダの輪郭とは、おぼろげなもの。
- 抱っこされたり、撫でたり、服を着ることで確認できる。
(鷲田清一)
生活も、そういうものじゃないだろうか、と思った。
そもそも文化とか、倫理とか、およそ社会で定義されている行動規範のほとんどは、われわれが思っているほど意味はない。日本人の行動が外人からみると奇異なものに写るのも、そのせいである。ただ単に、文化を守って貫くことだけに意味があり、文化そのものには意味が無いのだ。だから逆に、文化とか、倫理とか、社会正義を振りかざす演説家がいたとしたら、そいつはアヤシイ。
さて日本の伝統というのは、文化の記号的側面に頼る部分が強いのだろうか。茶とか、独特の正義感とか、旧来の日本家屋のストイックなまでの生活をみていると、そう感じる。だいたい正座するのは痛いし寒いではないか。
もちろん、だからといって、全てに対して無法で、無防備で、無関心であることが自由なのか?というと、そんなわけはない。全てが快適でぬるま湯にひたっていると、自分のよりどころがなくなってしまう感じがする。
- 文化の輪郭とは、おぼろげなもの。
- インテリアをデザインしたり、学校や会社に行ったり、服を着ることで確認できる。
手順(プロシージャ)としての美意識というのが、そこにはあるのでしょうか。
とある職人さんの手仕事を見ていて、そんなことを思いだしました。