2010年3月4日木曜日

ヘレンケラーとグラハム・ベル



カナダ・バデック村(グラハム・ベルの家がある)


ヘレンケラーの著書でいま、読めるのは2つ。そのうち日本語で読めるのが「ヘレンケラー自伝」である。
昔は良く伝記を読んでいたものだけれど、最近はめっきり。というわけで、久しぶりに目を通してみると、なかなか面白い発見があった。

アレクサンダー・グラハム・ベル博士

ヘレンケラーが、ハーバード大学を卒業するほどの知識の世界に入ることができたのは、サリバン先生という家庭教師のおかげだったのだけれども、そもそもこのサリバン先生と出会うきっかけをつくったのは、かのグラハム・ベル博士だった。グラハム・ベルというと、電話を発明したことであまりに有名になってしまったが、実のところ本業は「聴覚障害者の教育」だったのである。実際、ベル博士はボストンで聾学校も経営していた。
さらにグラハム・ベルの父であるアレクサンダー・メルヴィル・ベルは、視話法と呼ばれる発音訓練法を考案し、それを父子そろって学校で教えていたようだ。

聴覚障害者支援から電話の発明へ
電話の原型で、音声の波形を記録するフォノートグラフという機械は、元々は聴覚障害者のためにつくったものだったのだ。マーシャル・マクルーハンも、著書メディア論の中で「電話の発明とはフォノートグラフの副産物」だといっている。
私はベル博士の妻が聴覚障害者だったことも、こうしたライフワークを後押ししたのではないかと思う。

さてヘレンケラーはベル博士について、次のように回想している。

  • 博士の家は、作家チャールズ・ダッドリー・ワーナーの本で一躍有名になった、バデックという村の近くにある。私は博士の研究所や、家の近くの雄大なブラドー湖畔の野原で、数々の実験の話しを聞き、凧を飛ばすのを手伝って楽しんだ。凧揚げは「未来の飛行船」の飛行原理を発見するための実験だった。
  • ベル博士は、科学の多くの分野に通じており、あらゆるテーマを興味深いものに変えてしまう技術を持っていた。難解な理論も面白くしてしまうのだ。ベル博士の手にかかれば、「もう少し時間があれば、自分も発明家になれるのではないか」と思い込まされてしまう。
  • 博士は、ユーモアと詩的な面も持ち合わせていた。しかし博士が一番熱心だったのは、子どもたちへ愛情を注ぐことだった。耳の聞こえない子どもたちを、胸に抱いている時ほど幸せなことはないようだ。聴覚障害者のために博士が払った努力は、いつまでも忘れられることはなく、未来の子どもたちもその恩恵に与り続けることだろう。その業績はもちろんのことだが、博士が人々の心の光となったことに、私たちは敬意を払っている。

偉大なエンジニアは、その「エンジニアリング」だけが偉大なのではない。
偉大なデザイナーも、その「デザイン」だけが偉大なのではないのかもしれない。