「ああ、またか。」
終結はいつも引き伸ばされる。
1つ1つの事例を重ねて、いずれは「なんだかとてつもない怪物」が姿を現すであろう、という幻想に私はすっかりと酔ってしまうのです。すごーく大げさに言えば、それはまるで、究極的な真理を夢見て思索を重ねる科学者や哲学者のように。
データマイニングと可視化
古くはEdward Tufteが、「情報可視化が適切に行われていれば、疫病感染をもっと早期に処置できた」とか、「スペースシャトルのOリングに起因する事故は、可視化によって適切に検出できた」といったショッキングな言語表現で、情報デザインの重要性を訴えてきた。こうした、
- そのとき適切なデザインさえしていれば、あの事故は避けられたのに
という仮定法過去による論調は、我々大衆が持つ「お仕着せの正義感」とあいまって、デザインの社会的重要性を「劇場化」してくれる。JavaやOpenGLによるインスタントな可視化手法、そしてProcessingが登場したときも、なにやら「すごいことが起こる気配」を感じてしまった。
つい先日、下着に爆発物を隠していた航空機テロ未遂事件がおきた。上の動画は、この容疑者のオンラインでの活動を可視化したものだという。ここから、「犯人の閉鎖的な性格などが読み取れる云々」といったストーリーが展開されてはいるけれど、実際のところ、ネット上のコミュニティーに入り浸る人なんてザラに居るわけだし、この資料自体は何の役にも立ちそうにない。
しかし、個々人のインターネット履歴を可視化することで、あるいはデータマイニングすることで、「テロを事前に察知できる」だとか、「将来のテロリストを早期発見して矯正できる」といった想像は自然とふくらんでしまう。だいたいこの手の話は、「そんなことはBB(ビッグブラザー)の世界観ではないか」といった意見で冷や水をさされ、サスペンド(中吊り)になり、そのうち忘れられてしまう。
サスペンスという悪魔
サスペンス映画が面白いのは、なぜだろうか?
それは「真実を知りたい、本質を見たい」、という人間心理をあざ笑うかのように、真実らしきものの片鱗が見え隠れして、それが思わせぶりな「予告」として章ごとに繰り返されるからだ。真実と予見とのインタフェース(関わり合い)をウロウロとしながら、「見たい見たい」というエロチックな欲求を刺激する。
「サスペンス映画」は、早々に結論を見せてしまっては破綻する。究極のサスペンスがあるとすれば、それは「永遠のチラリズム」をかかげることによって人間から興味のエネルギーを吸い尽くし、永久に生存する悪魔的な生物なのかもしれない。
(つづく)