2010年11月4日木曜日

学問の理想像について


ラファエロの「アテネの学堂」をみた。プラトン、アリストテレス、ソクラテス、ピタゴラスなど、泣く子も黙る学者達が一堂に。科学や哲学に興味がある人なら、誰もがあこがれる学問の理想郷である。

でもよく見ると、主題(画面真ん中)のプラトンとアリストテレスの議論は噛み合ってなさそう。だってプラトン(左)は天を指して、アリストテレス(右)は地を指している。立ち位置が違うから、これはいくら議論しても不毛っぽい。そのグダグダな議論を、取り巻き達が訝しげな顔で見学している。画面周囲を見れば、ヘラクレイトスは一人で考え込んじゃってるし、ピタゴラスは勝手に計算してるし、アルキメデスは石版に数式を書くのに没頭している。

つまり、「みんなバラバラ」だ。最盛期ルネサンス文化において既に、学問の理想とは、「パトロンのお金で好き勝手な研究をする」ということだったのか。


日本の学者が減ったワケは?

最近、めっきり大学の「学者さん」が減ったなぁと思う。もう、見るからに「学者」であって、浮世離れした理想像を高い声でまくし立てながらも、一生を掛けてどことなく未来をポイントしてくれるような、そんな理想の学者さんが大学に居ない。むしろ、企業研究員(職業研究員)の方が、そういう人の居場所があるようにも思う。

「パトロンのお金で好き勝手な研究をする」というのは、確かに学問の理想ではあるけれども、現代のパトロンといえば文部科学省・公共団体・企業といった法人である。そして、これらの法人からどれだけ研究資金を引きづり出したかを競うのがアメリカ型の現代アカデミアであり、どれだけ論文を書いたかを競うのが日本型アカデミアの実態のようだ。だから日本のポスドクは「論文生成器」とならざるを得ないのではないか。いかにも「論文のための研究」のような雰囲気のものが蔓延している、気がする。他の研究との「差異」をつくるために理屈をこね出すから、成果は何となく「みみっちくて貧乏くさい」ものになる。

ダ・ヴィンチは絶世の美男であり、歌声もなかなかのものだったとか。パトロンは彼に心底惚れ込んでいたのだろう。もういっそ、それでいいんじゃないだろうか?

  • 「○○大学はルネッサンスの理想に共感し、美男・美女・美声を教員の評価尺度とする」
教員は予算申請の書類作りに一生を捧げる事もないし、細切れの論文作りに腐心することもない。そして何より、けっこう学生が集まると思うんだけど。