わたしは何となく、合理的で還元的な考え方が好きになれない。彼らは社会や人生観までも意味もなく機械的な部品単位にまでバラバラにしてみようと試みる、冷徹な解剖屋のようにみえる。例えばこんな感じだ。
- 第一に、明らかに真であると認められない限り、どんなことも決して真であると受け入れないこと。つまり、きわめて慎重に、早合点や先入観を避けること。あらゆる疑いをも取り除くほどにはっきりと明瞭に、わたしの知性に示されること以外は、決して判断に含めないこと。
- 第二に、それぞれの問題を、できるだけ多く、そしてより良い解決に必要とされるだけ、たくさんの小部分に分けること。
- 第三に、自らの思考を順序良く導くこと。もっとも単純で、もっとも認識しやすいことから始め、少しずつ階段を上がるようにし、最も複雑な認識にまで上りつめること。そして、そのままではどちらが先にあるのか分からないものの間にも順序を仮定しながら行うこと。
- 最後に、どんな場合においても、一つ一つ完全に数え挙げ、総合的な見直しを行い、なに一つ見落としたものはないと確信すること。
(デカルト、1637年)
確かに、20世紀まではそれで良かったのかもしれない。しかしその結果、現代の科学的世界観はどうなったかというと、たとえば人間そのものについてDNAレベルにまでバラバラにして考えた結果、「人間とチンパンジーは数%しか違わない」という実にどうでも良いマヌケな話しになってしまったではないか。
種族のイドラ
フランシス・ベーコンは人間の思考の「くせ」のようなものを「種族のイドラ」と読んでいくつかのグループにまとめている。かいつまんでいえば、それらは次の2つのようになる。
- すぐ物事を一般化しようとする
- 肯定的なものにばかり心を奪われる
イドラーの掟
企画屋(少し広い意味でのデザイナーも含む)は、少なくとも発想の段階においては、デカルトであってはいけないと思う。いやもちろん、その発想を明文化し、演説し、説得し、お金を集め、人に知らしめ、メディアに載せるためには、論理的なツールを存分に使えば良い。そんな手引き本は山ほど出ている。そして、自分の発想がいかに論理的で実理的であるかを心ゆくまで自慢すれば良い。
しかしこれらはあくまでも、外から見た企画屋の「社会的役割」の話しであって、その人の内面的なクリエイティブの源とは別である。つまり企画屋は、自己の中の自己、という劇中劇を演じなくてはならない生き物なのだと思う。
さてそのためには、こんなイドラ丸出し(イドラー)の掟があっても良いのではないだろうか。
- 第一に、明らかに誤りであると認められない限り、どんなことも全て真であるとおおらかに受け入れること。つまり、誰よりも先に率先して早合点をし、その先入観を誰よりも強く最後まで持ち続けること。自分の知性や客観的な論理を信用せず、天から与えられた感性と直感で判断してみること。
- 第二に、直近の問題をいきなり分析しようとせず、役に立つと思われるできるだけ多くの事例を集めること。そのために沢山の人とコミュニケーションすること。
- 第三に、順序だっている(とされている)ものを徹底的に破壊し、既成概念を跡形もなく消し飛ばすこと。誰でもわかるようなささいな問題解決はひとまず放っておいて、仮説でよいから全体を描き出す「何か」をみつけること。どちらが先か、どちらが優先か、どちらが原因か、そんなことはどうでもいい。時空間を超えて自分のイマジネーションを最大限に高めること。
- 最後に、どんな場合においても美しいアイディア、面白いアイディア、インパクトのあるアイディア、奇抜なアイディアなどを尊重すること。人間がそうであるように、アイディアも完全でなくてよい。見落とし、漏れ、抜け、矛盾、整合性などくだらない側面に気を取られないこと。