2008年4月29日火曜日

路上観察のデザイン

 YouTubeに、「Peple in xxx」というシリーズが投稿されている。People in Shimokitazawaとか、People in New Yorkとか、そんな具合に、街の人たちが普通に歩いているシーンが沢山撮り貯められている。



 社会学とかを勉強された方には「当たり前じゃん」と言われてしまうかもしれないけれど、人の生活を観察することで様々な発見を生むことができる。目的性をもって観察調査を行うという手法は、昔からエスノグラフィー(ethnography、民族誌学調査)として知られている。
 近年ではこの手法を商品開発に生かそうとすべく、ビジネス・エスノグラフィーというアプローチも取り入れられつつあり、広告代理店などでは一定の成果が出ているようだ。ユーザの観察によって発見を得るというデザイン手法は、深澤直人さんも在籍していたID-ONE(現IDEO社)あたりがパイオニアといわれている。

 さて上の「People in 下北沢」のムービー、ただ見ていても面白くない。エスノグラフィーでは、リサーチ・クエスチョン(RQ)をつくることが大切だといわれている。例えば、


「傘を差している人同士が避けるとき、避け方にはどんな種類があるか?」
「傘の持ち方はどんな風か?自分がやらないもち方の人は居ないか?」
「傘と荷物の持ち方に関係はあるか?」


といったRQをたてて、これらの答えを見つけるべく観察をするとよい。何気ない街中の風景から、必ずといって良いほど、思ってもみなかった発見が出てくるはずです。皆さんもぜひ、試してみてください。

2008年4月26日土曜日

詩的な紙袋のデザイン

 デザイナーの卵が「発想」する瞬間を目撃したいと思い、先生のご好意で多摩美の授業を聴講させていただいている。植村 朋弘先生が毎回準備されている課題には、愛着や経験といったヒトの深い内省からデザインを掘り起こす「きっかけ」が沢山含まれていると思う。
 「何の変哲も無い紙袋に付加価値を付ける」という会で、それは起こった。紙袋なんていうのは、マーケティング用語でいうところのコモディティの代表格みたいなもので、市場では差別化できる要素がほとんどなく、ほとんどの製品は単なる価格競争に陥っている。そんな商材に付加価値を付けるために、デザインの力は絶大な威力を発揮するかもしれない。
 僕は社内便にヒントを得て、「自分の手元に来た過程がわかる封筒」というのを作ってみた。消印から日付と場所が推察でき、切手の種類や貼る位置によってその時々に一期一会の「経緯」が形作られる、というストーリーだ。これはこれで、まぁまぁ面白い発想だったかなと思う。

デザインポエトリー
 でも、ある学生のプレゼンテーションからは全く異質なものを感じた。彼女は「春・夏・秋・冬の紙袋です!」といって、画鋲か何かで穴だらけになった袋を4つ、持ってきた。ボコボコの外観は、あまり綺麗な仕上がりには見えなかった。
 彼女が「内側から、覗いてみてください」というので、分けもわからず言われたとおりに紙袋を顔につけ、穴だらけになった紙袋の中を覗きこんでみた。僕がたまたま手に取ったのは「冬の紙袋」で、そこには星空が瞬いていた。オリオン座も見えた。
 そう、彼女は画鋲で穴を開けて、紙袋に簡易プラネタリウムをつくっていたのだ。僕の「社内便封筒」は、発想の豊かさで完全に負けていると思った。聞けば課題が出た夜、ぼーっと夜空を眺めていて、思いついたのだという。

デザインの「可能性」に気づく
 物の売れないこの時代、製品開発や商品企画は修羅場になってくると思う。ましてやコモディティ化した製品の付加価値を考えている際は、一時の余裕もないはずだ。そんな時、デザイン思考による発想は大きな恩恵をもたらしてくれる。先のPADUITのLANケーブルや、3Mがひょんなことから発想したポストイット、Appleの起死回生物語なんかは、その良い例だろう。
 プラネタリウム紙袋の発想過程は、詩をかく行為に似ているのではないだろうか。あるいは制約が多いから、俳句に近いのかもしれない。マーケットのプレッシャーに押され、ウンウンと唸りながら演繹的に解を導き出すというよりは、そういう時こそリラックスして発想を広げ、何かと何かの共通点を帰納的に結びつけているように思う。
 世界初の自動改札機をつくった立石電気(現オムロン)のエンジニアは、切符を高速に処理する機構がなかなか設計できず、気分転換に行った旅行先で「川に流れる木の葉が石に引っかかる」のを見て、ブレークスルー策を思いついたという。
 厳しい状況にあっても、良質なデザインの発想を生み出す環境を意図的につくりだす。これも立派なデザイン行為だと感じた。負けたから偉そうなことは言えないのだけれど。。。

2008年4月25日金曜日

関守石のデザイン

 玄関のインテリアに、手づくりの関守石(せきもりいし, barrier-keeper stone) を置いてみた。井の頭公園で拾ってきたただの石っころなのに、縄を巻くだけでどこか引き締まった印象がある。関守石は千利休の時代に生まれたといわれていて、日本庭園において「この 先、立ち入り禁止」という非常に象徴的な意味を持つ。自然物である石に、あえて麻縄を結びつけることで、主人の「心」を表現しているものらしい。
 榮久庵 憲司氏は、日本的な価値観のひとつとして「象徴観」を挙げ、その著書「GKの世界~インダストリアルデザインの発想と展開(1983)」の中で次のように説明している。

鶴亀、松竹梅、七五三、末広がり、三つ巴、重ね、亀甲、矢羽根など、日本の造形のすみずみにさまざまな形象に、宇宙観、世界観は表象されている。造形、色彩、素材、いずれをとっても日本人の象徴観をぬきにしては、気分にそぐわないものになってしまう。

 象徴(symbolization)という行為が、いかに日本文化の中に根付いているかを的確に言い当てていると思う。無機質なパソコンの電源ランプに細工をして、スリープ時に呼吸をしているような表現を最初にやってのけたのはAppleだったけれども、あれは日本のお家芸だから、本当はユーザの経験価値を重んじるThinkpadあたりに真っ先にやってもらいたかった(Thinkpadは当時、日本のIBM大和事業所で設計されていた)。これもちょっと残念な話だが、関守石は最近、理解してくれる人がおらず、京都の庭園あたりでは代わりに「立ち入り禁止」の看板が幅を利かせているらしい。

 先日あるプロダクトに、会社のCIマークを傾けて印字する企画の話をしているとき、「傾けるならやっぱり、右ではなく左回りの向きでしょう」といった担当者が居た。「どうして?」とたずねると、「だってそうすれば、CIマークが右肩上がりになりますから」とのこと。ステキな象徴観を披露している輩がいたら、ぜひとも「それイキだね!」とでも突っ込んで、盛り上げて行きたいところだ。

2008年4月24日木曜日

魔法のデザイン

 僕は昔から手品の類が大好きだ。でもマジシャンKOJIさんの表現しているものは、普通の手品とはちょっと違うような気がする。種も仕掛けも無いのに、人に大きな気付きを与えてくれるのだ。

 Project10は、たった一枚のPDFを印刷して眺めるだけで、笑顔と幸せでいっぱいになってしまうステキな企画である。種も仕掛けも無いのだから、これはもはやマジックではなく、本当に魔法なのかもしれない。
 可視化の方法に工夫をこらすことで、いままで気付かなかったことが見えてくる。デザインというのは、どこか魔法じみた要素を含んでいるのかもしれない。

2008年4月22日火曜日

日本最強のブランドとは?

 吉祥寺の駅前で、「千円札」を配っているお姉さんがいた。ドキッとした。
 よくよく見るとそれは、「千円札に見える」ようにデザインされた、カラオケ店のチラシだった。左右の寸法、独特の色合い、レイアウトなどのデザイン・パターンが千円札そっくりだったけど、ディテールは千円札とは程遠いし、別に違法性もないだろう。
 千円札裁判の赤瀬川原平さんは、前衛アートと貨幣のギリギリのあたりを狙われていて(結果ギリギリじゃなくてアウトだったという落ちがついたのだけれど)、「紙切れの価値」について本当に考えさせられた。
 しかし千円札をチラシにしてしまうとはまた、キッチュな戦略を思いついたものだ。お札で遊ぼうは「お札」と「折り紙」という本来相容れない表現が微笑ましいのだけれど、今回の場合は広告効果の低いチラシというメディアにおいて、貨幣という「抜群のブランド力」をうまく利用した、高度なデザイン思考にさえ見えてくる。


 さてさて、わが国で貨幣と同じくらいブランド力のあるものは何だかご存知だろうか?おそらくそれはNikeでもAppleでもなく、「皇室御用達」の印籠だろう。もはやどんなブランドも、これにはかなわない。日本最強の知名度を有するブランドだといっても過言ではない。そういえば有栖川宮詐欺事件なんていうのもあった。あれは完全にアウトだったし、前衛でも何でもなかったけれど、ひょっとしたら目の付けどころは同じだったのかもしれない。デザイン思考は時として、「詐欺師のアイキャッチ手口」を必要とするのかもしれない。

2008年4月18日金曜日

「見立て」のデザイン

 「見立て」が日本文化として良く浸透しているのは、落語や文学から親父ギャグまで、あらゆるシーンでみてとれる。英語ではどのように「見立て」を使うのだろうと思って辞書を調べてみると、

「炭焼き小屋で焼かれた炭に見立ててブラックペッパーを振る」
訳:Black pepper is used to resemble charcoal made at a charcoal burner's lodge.ALC英和辞典より)

 うーん、最悪である。used to resembleなんて言われては、見立ての情緒感が失われてしまう。そもそも論述的に書いてるのが全然いけてない。もっと良い言い回しがあるのかもしれないけど、これでは0点だ。なんにせよ、論拠とか意味関係をショートカットして「見立てる」ことができるのは、あいまいさを許容しながらも先に進めるステキな文化の表れではないかと思う。
 このあたりをうまく具現化しているのは、やっぱりプロダクトデザイナーの皆さんだ。


左:バナナのようなドアストッパー(デザイナー:渋谷 哲男氏)
右:水しぶきのような傘立て(デザイナー:浅野 泰弘氏)

 日常の中のささいな「見立て」のアイディアを大切に育て、形として具現化している。上の2つの作品はプロデュース会社アッシュ・コンセプトによるもので、同社の製品はいつも「デザイナーのインスピレーション」と「ビジネスセンス」が絶妙にバランスしていると思う。





左上から:グラスのようなランプ、マグカップのようなゴミ箱、マグカップのような照明、そしてお萩の形をした照明(いずれもイデア株式会社、デザイナー不明)

 大阪のイデア社(IDEACO)の製品は、街の雑貨屋さんなんかで見かける事が多い。たいへんリーズナブルながら、説明なしに納得してしまう「見立て」が内包されているように思う。同社のデザインコンセプトには、こんなことが書いてあった。

私たちはデザインを通じて、「日本人として生まれたことで世界に役立てる仕事をしていきたい」と考えています-IDEACOのWebページより

 自分たちの生まれ育った環境の文化的背景を尊重するだけでなく、それを最大限「強み」として利活用することは、もっともっと声高に進めても良いのではないだろうか。

2008年4月17日木曜日

「ヨゴレ」のデザイン

 シミ、手垢、ホコリ、いかにネガティブなものであっても、デザイナーにとってはインスピレーションの種になりうるらしい。
 紙がコーヒーカップの輪ジミで濡れ、裏側が透けて見えている(かのように見える)新聞広告をつくって見せたのは森本 千絵さん(当時、博報堂)だったし、コップの結露というネガティブな現象を見事に付加価値へと転化してみせたのは新進気鋭のプロダクトデザイナー、坪井 浩尚さんだった。



 「美しさをさらに引き立たせる」のはデザインの重要な役割だとされているけれども、「美しくないものを美しく転化させる」のはデザインのより原始的な動機なのではないかと思う。

 商品開発やマーケティングの世界では良くvalue-added(付加価値)やnon-negative(マイナス要因の解消)についての議論が行われる。森本さんや坪井さんの作品を眺めていると、デザイン思考はnon-negativeから一気にvalue-addedへとドラスティックな転化をもたらす可能性を秘めているように思えてしまう。

2008年4月15日火曜日

PANDUIT~怒りのデザイン

 デザインに「怒り」が必要だ、などと書いてある教科書はどこにも無いと思うけれど、PANDUIT社のLANケーブルは明らかに「怒り」が源泉となって発明されたようにみえる。


 これのどこが特徴かというと、つめの部分がアーチ型になっているのだ。カンの鋭い方はすぐにおわかりと思うが、LANケーブルのツメというのは、抜き差しを繰り返すうちに必ずといっていいほど折れてしいまう。ケーブルの直径と、ツメの出っ張りがちょうど同じくらいの長さなのがまた良くない。そう、ケーブル自体がツメに引っかかってしまうのだ。折れてしまったケーブルは買い換えるしかないので、「これはケーブル会社の戦略か!?」などという疑心暗鬼になってしまうくらいである。

 LANケーブルの歴史を紐解くと、RJ11と呼ばれる電話用のモジュラージャックに遡る。これは家庭や会社の電話でよく使われているので、知っている方も多いだろう。RJ11の時代は用途がほぼ固定電話に限られていたので、抜き差しをする機会はほとんどなく、逆に簡単には抜けない構造や、必要以上の力がかかったときに電話機側を壊すことなく抜けるような構造などが求められた。
 このRJ11を原型として、現在のLANケーブルの規格であるRJ45が作られたのだが、このときも基本的な要求仕様は変わらなかった。これが悲劇を生んだのである。電話と違って、ノートPCのように頻繁に抜き差しする状況においては、電話線規格をベースとするRJ45はポキポキ折れるというデザイン上の致命的な欠陥を持ったまま、IT化の流れによって世界中で使われることとなったのである。

 ユーザーの怒りが頂点に達するのを知りつつも、ベンダー側はなかなか「ツメをアーチ型にする」というイノベーションを生み出すことができなかった。というのも、RF45規格は米連邦通信委員会 (FCC) によって規格化されており、誰もがそのデザイン形状を変更することは出来ないと思っていたのである。PANDUIT社の偉いところは、この思い込みを払拭し、「仕様の抜け道を探した」ことにある。実はRJ45規格(下図)を見直してみると、ツメ形状の例示と一部の寸法指定があるだけで、「ツメがアーチ型をしていてはいけない」ということを示唆する記述はどこにも見当たらないのだ。





 これに目をつけたPANDUITは、「怒り」と「抜け道」によってイノベーションを起こし、このときに取得した特許によって、それまで泣かず飛ばずだったLANケーブル市場におけるシェアを独占的なものとした。競合他社の企画担当者と話したことがあるが、今や業界ではツメ折れはすっかり問題意識として定着したものの、PANDUIT特許よりもエレガントな解決策を見つけられない事が悩みの種だという。
 怒りのイノベーションから学ぶことは大きい。まず、ライフスタイルやビジネススタイルが変化することによって、当たり前と思われていた要求仕様の齟齬を発見できたこと。これは顧客視点の観察や、自分自身がユーザになることで体験を共有できる素地があったためだと考えられる。次に、変えることの出来ないと思われている仕様を今一度見直し、現実的な解(BCP, best current practice)を生み出したこと。これは技術仕様だけではなく、社会通念や法制度に対しても言える事だ。
 誰もが当たり前と思っていることを疑い、誰もが変えられないと思っている既成概念を突破する。怒りのイノベーションにおける、デザイン思考の重要性は大きいと思う。

2008年4月14日月曜日

キツネと甘酒のインスタレーション感覚

小雨の降る夕方、井の頭公園を歩いていたら「おはやし」の音色が聞こえてきた。みてみると、弁財天さんの境内で、浴衣を着てお面をかぶった女の子たちが太鼓の音色に合わせて踊っている。

 不思議に思って中に入ってみると、「甘酒振舞中」の文字。お客さんは僕しかいないようで、おいしい甘酒をいただきながら、仕切っていると思われるおばあちゃんに春祭りの経緯を聞く。



おばあちゃん「いやぁ毎年、春の桜の時期にお祭りやってるんだけどねぇ、お客さん居ないねぇ」
私「だって桜、もう散ってますよね?」
おばあちゃん「うん、昔は満開だったんだよねぇ、この時期でも」
私「それまたずいぶん昔の話しですよね、お祭りの時期、変えられないんですか?」
おばあちゃん「ぼちぼち変える時代かもねぇ、本当は簡単に変えていいものじゃないんだけどね」

 シトシト降る春雨と、太鼓の音色と、お面の少女たちをみながら、「僕はいま、キツネにつままれているんじゃないか?」という不安にかられてしまった。この甘酒は泥水で、おばあちゃんキツネは井の頭池の守り神様で、温暖化問題を人間に訴えているんだったりして。。。



 デザイナーやアーティストが良く使う現代的な手法に、 「インスタレーション(installation art)」というものがある。その場所にある空間全体を作品として表現するもので、古くは善光寺の「戒壇(かいだん)めぐり」から始まり、最近ではドイツ生まれのダイアログ・イン・ザ・ダークが流行ったこともあった。新宿のICCあたりへ行けば、最新のインスタレーションが平成の見世物小屋よろしく沢山展示されている。
 別に誰かが故意に作り出したシチュエーションでなくとも、その空間をとらえるインスタレーション的にとらえる事は簡単に出来るし(そう、甘酒のキツネおばあちゃんのように)、それは「見立て」として古くから日本人の得意とすることでもある。そういえば布袋寅泰さんは雨音や自動車のワイパーのリズムが自分に語りかけているようで、たまらなく楽しいと言っていたし、私はというと、カーステレオを聞きながら見る交通誘導員がダンサーに見えることや、電車で向かいに座った人の黒目が、風景の眺めに合わせて左右に動く様が、たまたまi-podから流れる音楽と同期して吹き出しそうになったことがある。
 何だか根暗な楽しみを披露してしまったが、ともかく色々な「仮定法」の引き出しをもって現実世界を眺めることで、新たな発見、新たな喜びが生まれるということを書きたかったのです。ニュートンのリンゴ説なんて、なかなか粋な「見立て」じゃありませんか。

2008年4月13日日曜日

チョコレートと牛丼にみるメディア変換

 もう40年近く前に書かれた統計でウソをつく法では、人間のヴィジュアル・イメージや心理モデルを巧みに利用しながら、物事をいかに大げさに表現することができるかについて、面白おかしく書かれている。近年の金融商品の広告(新生銀行なんて上手ですね)や、行政が発行する白書の類いを見ていると、統計結果をいかに魅力的に魅せるかあらゆる工夫がこらされるようになってきており、40年以上たってもプレゼンテーションの技法として「統計表現」の手法が未だに有効であることにほくそ笑んでしまう。
 著者のダレン・ハフ氏は、「ウソをつく法」を伝授したかったというよりは、人の直感やイメージという主観定性的要素と、統計といういかにも客観定量的要素とが結びつくことで、単なる数字の羅列や退屈なグラフに色気がかかり、物事が魅力的に表現できるという、デザイナー的な表現の可能性を見せてくれたように思う。

 昨年の「深澤直人ディレクション Chocolate 」にマイク・エーブルソン+清水友里(POSTALCO) “カカオ・トラベル” 2007という作品が展示されていたけれども、ここでは熱帯を産地とするカカオ豆がどのように流通し、チョコレートとして消費されているかが、水道管という誰もが知っている仕掛けによって見事に可視化されていた。

 牛丼一杯をつくる過程で必要とされる水の量を、「牛丼=2000リットル」という何ともいかにもキャッチーなグラフィックで表現して見せたのは佐藤卓ディレクション「water展」だった(これまた去年の話しで恐縮ですが)。


 どうやら、あるアナロジーによってメディアを再変換するという作業は、デザイナーの得意分野らしい。こんなにも普遍的で、直感にうったえ、記憶に残り、そして説得力のあるプレゼンテーションの方法論を、デザイナーだけのものにしておくのは勿体無い
 それを風の強さに例えたら?違う国の国家予算に例えたら?トラックの騒音に例えたら?単なる数字や統計指標だけにとらわれず、常にメディアを縦断しながら、数字に色彩を付け、新鮮で心地よいショックを与える事を考えておきたいものですね

参考
http://www.japandesign.ne.jp/HTM/JDNREPORT/070530/chocolate/2.html
http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2007/12/water.html%22%3Ehttp://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2007/12/water.html

2008年4月11日金曜日

「櫻」と「サクラ」の日本文化

 今朝方、一面の桜吹雪に思わず足をとめてしまいました。文学作品で時に「狂おしい」「はかない」といった言葉で表されるように、満開の桜はどこかしら狂気や死後の世界を連想させます。
 「櫻」という漢字は、見ての通り「木が飾っている(女性が貝の耳飾りをつけている)」という意味を持ちます。昔の中国人も、満開の桜の木に狂喜乱舞を感じ取っていたのかもしれません。
  一方で日本語の「サクラ」の語源には諸説あり、真相はよくわかっていないようです。語源などというのは「どれが正しいか」を議論するよりも、「どれが自分 のお気に入りか」を披露した方が楽しいもので、私のお気に入りはというと「裂く」に飾り言葉の「ら」が付いた、というものです。すなわち、咲き乱れる桜の 木の全体を見るのではなく、ハラハラと落ちた花びらの先の、あの、わずかな割れ目を愛おしく感じ、「サクラ」と名付けたというのです。


 ピンク色に爆発する桜を眺めながらも、一方ではお猪口に舞い降りた小さな花びらのかけらを見つめる。その、細やかなディテールに美を感じるセンスは、ものづくりやマネージメントなどの様々な分野で威力を発揮する、大切な国民性なのだと思います。