90才を超えようかというそのおじいちゃんは、スターウォーズの犯罪組織ハット・カルテルの首領、ジャバ・ザ・ハットにそっくりなので、私は心の中で「ジャバじい」と呼んでいる。なぜそんな高貴なあだ名を付けたのかといえば、そのジャバじいときたら、井の頭公園ですれ違う人全てに対して、丁寧に立ち止まって「敬礼」をしてくれるのだ。ジャバじいの洗礼を受けた者は、まず間違いなく目をそらし、子供の手を引き、そそくさとその場を立ち去る。
敬礼といえば、吉祥寺駅前の予備校では白ひげの守衛さんが、死んだような眼をして帰って行く高校生たちに「お疲れ様でした-!」と敬礼をしている。年配の守衛さんが学生に敬礼をする姿も滑稽だが、しかし、まったくをもって許せないのは、高校生が「答礼をしないこと」にある。いったい現代の予備校というものは何を教えているのか。
「守衛が敬礼をしたならば、文民たる学生諸君は左胸に右拳を当てて答礼をするのだ!」
と、別に私は軍国主義を勧めているわけではない。
そもそも敬礼は軍隊のものだけじゃない。鉄道でも、神道でも使われる。 私がなぜこんなに敬礼にこだわるのかというと、私の勤めている会社でも敬礼をしているからだ。 入社式が終わると、まず敬礼の作法から教わったものだ。 東大卒の同期でさえも、「敬礼の角度が甘い!」とシゴかれた。 だいたい普通の人が敬礼の物真似をすると、決まって「ミニスカポリス」みたいになる。 そう、手のひらが相手に見えているのだ。 すると教官に怒鳴られる。
「手のひらが相手に見えては失礼だろ!」
どうして手のひらが相手に見えては失礼なのだろうか? その質問は、たとえ東大生であっても禁句である。 「手のひらが相手に見えては失礼」であることは恒真命題(トートロジー)であって、そういう風に決められたものなのだ。もはや議論の余地が無いものなのである。
ああ、議論の余地が無いものというのは、なんだかとっても安心するではないか。 それは人間の不思議な弱点でもあり、最後のよりどころなのではないだろうか。
重度の健忘症(コルサコフ症候群)になった患者が、何一つ新しい事を学べないというのに、毎日の教会でのお祈りだけは欠かさなかったという話しを聞いた。
哲学者達は、人間を人間たらしめるものはこういった「信仰」と「芸術」、そして「愛」であるといった。
議論の余地がないものとは、そういうものなのだ。
ジャバじいの敬礼は、海軍式及びそれを引き継ぐ海上自衛隊式の敬礼である。
海軍は狭い甲板上で肩を並べながら敬礼するため、腕の角度が鋭利になるのである。
私はジャバじいと会う度に、この敬礼をもって心を交わすようにしている。
人間を人間たらしめるものは「信仰」「芸術」「愛」、そして「敬礼」なのである。
諸君もこのアプリをつかって、正しい敬礼をいち早く身につけるように。
海上自衛隊公式iPhoneアプリ「敬礼訓練プログラム」
http://www.mod.go.jp/msdf/formal/iapp/index.html