2011年2月15日火曜日

倉俣史朗の椅子は粗大ゴミか?

倉俣史朗のミス・ブランチ(Miss Blanche)は文句なく美しい。しかしそれを初めて見たとき、私は不思議な違和感を感じた。

まず、プロダクトデザインとして見たとき、あの椅子は果たしてどのくらいの価値があるのだろうか?
「椅子」というプロダクトである以上、少なくとも「人が座る」という目的があるはずだ。しかしあの椅子に人が座っている姿を、私は見たことが無い。
キズが付きやすいとか、座りにくいとか、重すぎるとか、冷たいとか、交換がきかないとか、色々な理由があるだろうけれど、これらはいずれもプロダクトデザインにおけるごくごく基本的な要件であって、ミス・ブランチはそれらを満たしているようには見えない。
生産性という問題もある。多くの手作業を必要とすると思われる仕上げは、大量生産品のデザインとしては不適切なのではなかろうか?事実、製造販売元のコクヨは生産をあきらめてしまったようだ。
果たして倉俣史朗氏は、沢山の人に使われず、長期的に生産されないプロダクトをデザインして、幸せだったのだろうか?

美術大学の卒業制作プレゼンテーションで、プロダクト志望の学生が矢継ぎ早にアフォーダンスやユーザビリティやプロダクティビティについて指摘された挙げ句、最後は「チミの作品はフィージビリティが考慮されて無いね、プロダクトはアートではないのだよ」といった一句で仕上げられる光景が目に浮かぶ。

そんな先生方も、あるいは多くのプロデザイナーも、倉又の椅子は大好きである。私も大好きだ。
しかし我々はなぜ倉又の椅子を見るときだけは、脳内で「プロダクト」の基本的な議論を欠如させ、あるいは意図的に棚に上げてしまっているのだろうか?

いやいやちがう、という人も居るだろう。

「あれは椅子の形をしているように見えて、実は工芸品(もしくはアート作品)なのだ。新しい表現方法を、材料の使い方を示す、技術と美術が交錯した美しい作品なのだ」、と。

確かにそのように見える。アートとして納得できるほどの美しさも備わっているように思える。しかし、ではあれが工芸品やアートだったとして、どうして椅子の形をしているのだろうか?という疑問が残る。
新しい材料や技術を示すための象徴としてのアート作品であれば、モノリスのような直方体や、あるいは花瓶の形でも良かったかもしれない。

少なくとも私には、あれは椅子のアイコンを形として身にまとっており、人が座るためのプロダクトとしてデザインされているように見えるのだ。

「私はプロダクトでしょうか?それともアート作品でしょうか?」

我々はミス・ブランチに、そのように問い掛けられているようだ。

あれがプロダクトだというのであれば、残念ながらその行き先はどこかの材料見本市か粗大ゴミ置き場くらいしか無いだろう。
あれが現代の工芸品かアート作品だとしたら、現代アートの割にはアンティークでロマン的で、工芸品にしては造花の質がイマイチという、何とも中途半端な代物のように思える。
しかし、恐らく多くの人が感じているように、ミス・ブランチはこれらのいずれでもない。

展示会場のなかで、ウットリとしながらミス・ブランチを眺める大勢の人たちが居る。
プロダクトデザイナーにとってみれば、プロダクトの中にアート的な何かを大々的に表現でき、アホな消費者のニーズや口うるさいマーケターに左右されない工芸的な高まりを維持できる可能性を感じられるのだろうか。
あるいは逆に工芸家やアーティストにとってみれば、アート表現と現実の消費社会との接点を見いだすことができるのだろうか。

ひょっとして「彼女」は、人々に夢をささやきかけ、心の中の願望を沸き立たせる邪悪な人魚なのではないだろうか。ミス・ブランチの名前は、テネシー・ウイリアムズの戯曲「欲望という名の電車」の女主人公の名前から取られているのだという。そして昔から、「美しい薔薇にはトゲがある」と言うではないか。

21_21 倉俣史朗×エットレ・ソットサス展


というようなことを考えながら見ると、デザイン思考が深まるかなと思ったのです。
あっ、ちなみに今日は休館日ですよ。