2011年1月17日月曜日

心理学者との対話(その5)~デザイナーとエンジニアの境界問題

心理学者
今回のお話は大詰めを迎えようとしています。まず最初に私は、お二人に対して「なぜデザインするのか?」「なぜエンジニアリングするのか?」ということをお尋ねいたしました。それに対してお二人からは、「社会に貢献したいからデザインする」「産業を発展させるためにエンジニアリングする」というようなお答えをいただきましたが、残念ながらこれらは本質では無いと言わざるを得ません。深層心理の中では、もっと原始的な欲動、すなわち肉体的な生殖や、精神的な生殖をうまく昇華させて、仕事に熱中できているのではないかと思うのです。
一方で、「社会に貢献したいからデザインする」「産業を発展させるためにエンジニアリングする」という一種の観念はどこからくるのでしょうか?それは、あなた方の仕事を社会の側から客観的にみたときに、結果的に「そのように振る舞っているように見える」、という事に他なりません。ほとんどの人は、自分の行動の多くを決定する「無意識の働き」について全く関心を示しません。それどころか、自分の深層心理を意識的に無視して、周囲の同意を得られやすいような、稚拙で思いつきの理論によって説明しようとします。つまり、「自分は原始的な欲動に従って生きる野蛮な生き物ではなく、このように社会的な目的性を持って合理的に振る舞う知識人なのである」ということをアピールしようとするのです。
もちろん全ての物事がうまく行っていれば、それで良いのです。しかし人間は長い人生の中で、様々な壁にぶつかります。デザイナーが自己複製した商品は時代に合わず、顧客や市場に受け入れられないかもしれません。エンジニアが身体を失った結果、社会にとって害悪となるような技術を生み出してしまうかもしれません。そして何よりも、デザインとエンジニアリングという、あらゆる人工物をつくる上で本質的に重要な分野が、お互いに何らの関わり合いもなく、デザイナーとエンジニアとの連携もつながりも無い状態のままではいけないと思うのです。

エンジニア
そのうち産業にも、成長の限界がおとずれると思います。それを乗り越えるという経済学的な観点からも、あるいはまた人間的で豊かな科学技術を生み出すという幸福論的な観点からも、エンジニアとデザイナーの協働というのは今後重要になるでしょう。
しかしながら、我々が普段から何となく感じていたように、また今回ジークムント氏によって分析されてしまったように、エンジニアとデザイナーというのは、全くをもって異なる人種なのです。欲動という名の人間共通のエネルギーがあるとするならば、エンジニアとデザイナーとでは、その受け皿が全く別なのです。ですから同じ仕事をする上で、心底共感し合うことができないのではないかと思います。これについて、我々は何か解決策を持てるのでしょうか?

デザイナー
今のご指摘は近年、無視できない現実的な問題となりつつあります。その一つが建築です。建築家というのはだいたい、建築物によって恒久的に自らの思考を人々に押しつけようとします。だから彼らは、より大きく、より沢山の人が出入りし、より長持ちする建築を目指します。自分のつくった導線に従って人間を出入りさせ、人々を歩かせ、自分の決めた場所で用を足し、食事をして、睡眠させます。これによって、自分の精神をより長期にわたって、より沢山の人々に、分け与える事ができるのです。これは非常に危険なことで、一つ間違えると暴力になってしまいます。
建築のように、最新の技術を駆使し、制作と廃棄に多くの材料とエネルギーを必要とし、人々の眼だけでなく身体に直接的かつ長期的に働きかけるような人工物の制作作業というのは、ある意味で文明社会の象徴だと言えないでしょうか。このような創造的活動においては、建築家、デザイナーそれからエンジニアといった人々の協調が必要とされると思うのですが、今のところこれらの専門分野は官僚的に細分化されており、その専門化と深化は進むばかりのようです。



心理学者
ドイツの哲学者でアルトゥール・ショーペンハウアーという人が、「ヤマアラシ(ハリネズミ)のジレンマ」という有名な寓話を発表していますね。
寒さに震える2匹のヤマアラシが居て、お互いを暖め合おうと近づいたが、近づけば近づくほど、自分たちの針でお互いを傷つけてしまう。そこでヤマアラシは、近づいたり離れたり、色々と試行錯誤を繰り返しながら、お互いを傷つけ合わず、けれども暖をとれるような、適切な距離を見つける。
というような話しです。これは、異なるエゴを持った人間がコミュニケーションをとろうとしたときに必ず発生する葛藤と、それに対する対処の方法を示唆していると思います。ヤマアラシが適切な距離を見つけるためには3つの段階がありますね。
1つ目にはまず、「痛み」が必要です。痛みを感じないと、気づかないうちに針を差し合ってしまいます。デザイナーとエンジニア、あるいは建築家といった人たちが近づき合う時には、啀み合いや生理的な嫌悪感というものが必ず発生します。この痛みは、決して悪いことではないのです。それは適切な距離を測るための感覚器だと考えてください。
2つ目に必要な段階として、「自分の針の長さを知る」ということが挙げられます。これがわからないと、適切な間合いを知ろうにも、どこまで近づけば相手に突き刺さってしまうのかがわかりません。つまり、自分自身を見つめることが大切なのです。そのためには自分の持っている欲動について、より本質的な観点から内省し、哲学することが役立つと思います。
3つ目には、適切な距離を見つけるための試行錯誤が行われます。これは行ったり来たりの繰り返しになりますが、「痛み」を十分に味わって、「自分の針の長さ」を知っていればこそ、いつかは適切な距離というものを知ることができるのではないでしょうか。

デザイナー
エンジニアとデザイナーは、近づけば近づくほど、相手がより奇異に映ってしまうような存在だと思っていました。時にはその奇妙な感覚を乗り超えて、時として互いに衝突しながら仕事を進める必要だということですね。もちろんこれはエンジニアリングやデザインに限らず、ありとあらゆる性格、職業、人種、異なる文化や国を超えて仕事をする上で必要とされる知恵なのでしょうね。
今回はエンジニアとデザイナー、あるいは建築家といった、ある意味では非常にエゴや自意識の強い人たちが、いかに協力して仕事を進めることができるか、という事について、非常に実り多い議論ができたと思っています。どうもありがとうございました。

エンジニア
正直に言いまして、私はお金儲けが大好きです。お金儲けのためだったら、ライバルを徹底的に痛めつけます。これは、私の住んでいるアメリカをはじめとして、多くの国においては正義そのものです。アダム・スミスの国富論の中で、
我々がパンや肉に不自由しないのは、彼らが慈悲深く、世のため人のために人肌脱いでいるからではない。彼らが自分たちの利益を追求し、できるだけ多くの金を儲けようとしているからである。
という一節がありましたね。しかし今私は、この一節では少し説明が足りないのではないかと思うようになりました。付け加えるならば、
そして私が自分たちの利益を追求し、できるだけ多くの金を儲けようとしているのは、単に金が欲しいためだけではない。自分の原始的な欲動を満足し、社会の中で認められる何らかの意味ある活動として表現したいためである。
ということでしょうか。こう考えると、人間というのは動物のように素直で、子供のように創造的な、じつに可愛らしい生き物であると思えるようになるのです。今日は良い話しをいただき、どうもありがとうございました。