心理学者
デザイナーというのは、自らの身体的特徴をコピーすることで大量の製品を完成させ、こうした自己複製行為によってナルシシズムを満足する人々である、というお話しをしました。ここで申し上げておきたいのは、こうしたナルシシズムこそが人間の知的活動の源となっている、という点なのです。
ちょっと極端な例かもしれませんが、このように考えてください。もしも我々から完全に理性を奪ったら、本能の赴くままに行動するでしょう。そして自分の子孫を繁栄させることだけに没頭し、殺し合いが始まるでしょう。おそらく人類の創世記とは、こうした「生殖」と「破壊」という二局面しか存在しない世界だったのだと思います。極端に言えば、兄弟や父親さえも殺すことで、自分の優位性を主張するような、およそ社会とも呼べない暴力的な集団が人類だったのではないでしょうか。しかしこうした行為が、集団全体にとって不利益となることは目に見えています。そこで人間は「近親相姦をしてはならない」「親兄弟を殺してはならない」「人を殺してはならない」というような、生殖や破壊に対する「規制」、すなわちタブーをつくることで、文化と繁栄を築いたのです。言い換えれば、現代文化とは「理性による壮大な規制」によって成り立っているわけで、文化とは「原始的欲動を放棄させ、別の形へ転化するのを強制する装置」だといえます。そして現代に生きる我々は、原始的に持っている生殖や創作意欲、あるいは破壊欲といった欲求を、法律や風習などのありとあらゆる規制の網をかいくぐり、社会的に認められた活動、すなわち「労働」や「芸術」によって満足しているということができます。私たちは、こうした心の動きを昇華と呼んでいます。
暴力的欲求が強い人であっても、勉強して外科医になれば素晴らしい手術をするかもしれません。あるいはとても破壊的な小説をつくって人々を驚かすかもしれません。ゴミや汚物をまき散らすのが大好きな子供は、その汚物を絵の具や粘土に持ち替えて、素晴らしい芸術家になるかもしれないのです。こういった昇華こそが、人間らしい労働・芸術・政治やもろもろの社会的活動を実行するエネルギー源なのです。
デザイナー
今のお話しをうかがっていて、デザイナーがどうして自分の作品を「子供」に例えるのかがわかった気がします。私たちデザイナーは普通、他のデザイナーの作品をけなすようなことをあまりしません。お互い、とても悪い気持ちになるからです。その悪い気持ちというのは、ひょっとしたら、自分の子供をけなされているような気持ちなのかもしれませんね。デザイナーは無意識にそれを感じ取っているのでしょう。
ヴォルテールというペンネームの思想家は、「自分の畑を耕せ」といいましたが、これは自分自身の欲動を適切な職業活動に転化させ、欲動を満足させることなのですね。
ただ漫然とデザインという仕事に従事するのも素晴らしいことですが、自分はなぜデザインをするのだろうか、という事について理性的な視点から見直してみる、というのも、大切なことだと思います。デザインの教育では、あまりそういう事がやられていませんから。むしろ、理性を捨て去って感性を引き出すような意見が大半です。
今後、デザイナーが社会にとって重要な職業になればなるほど、デザインについて哲学する、ということが求められてくるのでしょうね。しかし残念ながらまだまだデザイン自体が未熟な分野であり、社会にとっての重要性が十分に理解されていないように思います。
心理学者
デザイナーが哲学を知ることで、変化する社会の中で自分を見失わず、常に理性的に振る舞うための武器を手に入れられます。デザイナーはいつの時代も、自分自身の原始的な欲望に正直であって欲しいとおもいますし、それと同時に、知的で社会的であって欲しいと思います。
さてここで、私の好きなオーストリアの詩人ライナー・マリア・リルケの詩を全てのデザイナーに送りたいと思います。
おまえの鏡像だけお前が増えて、なんとお前は豊かなことだろうお前に向ってするお前の肯定が お前の髪の毛 お前の頬を お前のために是認するのだそのように自分を受け取ることにみたされてお前の眼はくるめき 見比べながら暗がってゆくくりかえし鏡のなかから取りだしてお前はお前に新しく自分を附け加えるまるで花瓶のなかでのように お前のなかで自分の似姿をととのえながら それにお前と呼びかけるその花開いたお前のさまざまの鏡像に。お前はしばらくしてそっとその似姿に気を配っているがやがてその幸福に圧倒されながらそれをまたお前の体に取りもどすその彼の深い内部からは溢れでているのだ意識された世界と孤独とが
(リルケ「鏡像」より抜粋、Drei Gedichte aus dem Umkreis: Spiegelungen)