2011年1月14日金曜日

心理学者との対話(その4)~科学技術という名の渇望について


バベッジと彼の階差機関、現在の全てのコンピュータの原型。

心理学者
後半は科学技術、すなわちサイエンスとエンジニアリングについてお話ししたいと思います。トーマスさんは、エンジニアの美意識について「仕掛けの道理が通っていて説明可能なもの」「複雑な創造物でありながら、その思想が明快でシンプルなこと」というような表現をされていましたね。
こうした執着というのは、エンジニアに共通のものなのでしょうか?

エンジニア
それはそれは相当なものです。私の尊敬する偉大な発明家で、イギリスのチャールズ・バベッジという人がいるのですが、彼は階差機関という、人間が解けないくらい複雑な計算を一瞬でこなしてしまう機械をつくろうとしていました。とても美しい機械で、理論そのものが仕掛けとして具体化しているのです。今で言うパンチカード計算機の原型でしょうか。将来、電気を使ってこの仕組みを高速化すれば、全数学者でも太刀打ちできないくらいの能力を持つ計算機をつくることだって可能でしょう。
私たちエンジニアはこういった美しい機械に心底関心しますし、良く出来た仕組みを見つけたときは感動するものです。エンジニアが「仕掛けの道理が通っていて説明可能なもの」「複雑な創造物でありながら、その思想が明快でシンプルなこと」を渇望するのは、そのようなものであれば論文としてまとめたり、機械として実装することができるからではないでしょうか。
しかしそこには、デザイナーが望むような肉体の「自己複製」という感情は全く無いように思うのですが。エンジニアは自身の肉体を複製することに興味が無いのです。おそらく、自分の顔や体にはあまり興味が無いのかもしれません。ただし、その体や生理作用がどのような仕組みになっているのかに興味がある人は大勢居ます。

心理学者
おそらく、論文としてまとめたり、機械として実装することで、エンジニアは自己の「精神」を複製しているのだと思います。人間が本質的にどのような生き物であるかは、古くから人々の興味の対象でした。紀元前300年代ごろに、古代ギリシャのプラトンという有名な哲学者が」「エロース」、すなわち人間の根源的な欲求の一つである「不死の欲」について語っています。プラトンによれば、エロースとは「肉体的生殖」と「精神的(心霊的)生殖」という2つの種類に分けられるというのです。前者の「肉体的生殖」といいますのは、子孫を残すことや、デザイナーのように自らの身体を自己複製することが当てはまると思うのです。そして後者の「精神的生殖」といいますのは、教育や書物によって他の人に自分の考えを植え付けることによって、精神を伝搬する行為だということができます。そして科学技術的な発明や論文、機械の製造や実装という作業は、後者の意味でのエロース、すなわち精神的な生殖作業であると説明することができないでしょうか。
エンジニアが憧れる「仕掛けの道理が通っていて説明可能なもの」「複雑な創造物でありながら、その思想が明快でシンプルなこと」というのは、いわゆる人間の肉体的な生理作用とは真逆の現象です。すなわち言い換えるならば、あなたがエンジニアというのは、永遠に叶えられない機械的な「美」を是認し、それを追い求めると共に、そのような未来永劫叶えられることのない究極的な「恋愛」に夢中になっている自分自身に陶酔するという、いわば変質した錯倒的なナルシシズムの姿だと言うこともできます。

エンジニア
デザイナーが自らの作品を貶される事を、まるで「子殺し」の如く嫌悪するのと同様に、エンジニアは自らの理論や考えを貶される事を恐れます。そこには確かに、精神的生殖とでもいうべきエロースの作用が働いているのかもしれません。
もしそれが正しいのだとすれば、今後の科学技術の発展というのは、次のような様相を呈するのではないでしょうか。すなわち、エンジニアリングというのはより肉体的で不確定な要素を廃棄し、精神的で概念化された方向に進むのではないでしょうか。今でこそバベッジの階差機関のように、機械というのはその姿を物理的に保っています。しかしながらそれは近い将来、全く透明(calm)なものとなり、究極的には、人々は機械の外観を全く意識せず、その機能的な作用のみに注目するような時代がやってくるのではないかと思うのです。まるで雲(cloud)をつかむかのような話しではありますが、そうした身体の消失というものが、そう遠くない将来やってくるような気がしています。

エンジニア:身体から脳を切り離し、観念を共有することに快感を覚える人たち。エンジニアの脳と脳は記号化されたコミュニケーションによって結びつき、彼らのヒエラルキーは「脳化の度合い」によって評価されてしまうのだろうか?

心理学者
その予測はおそらく正しいでしょう。多少失礼な表現かもしれませんが、エンジニアというのは「身体を喪失することに快感を覚える人たち」ではないかと思うのです。そこには、決して生身の人間がたどりつくことの出来ない完璧な仕掛けの表現物である「あやつり人形」を愛するという、そして、その永遠に叶うことのない愛を求める自分自身に陶酔するという、若干変質したナルシシズムを見とることもできます。もちろん「あやつり人形」というのは比喩ですから、人によってそれは鉄骨の構造であったり、数式であったり、化学式であったり、骨であったり、バベッジのようなメカニズムへの執着であったりと、様々な形をとるでしょう。
より機能的で、観念的で、機械的で、理論的な何かによって、世の中の役に立つ仕掛けを考案することが、エンジニアのヒエラルキーを決定しているのだとすれば、そこには手足を失って自らの身体を放棄するエンジニアの姿、脳だけの化け物となった姿をみることができるのです。そして彼らの評価は、「どれだけ身体を捨てることが出来たか」によってもたらされます。従って彼らの生きるための糧とは、より理性に訴えかける提案、機能的で形式的な革新性、形而上学的でメタレベルの観念、人々の精神的レベルにおいて伝搬するカリスマ性、などに見いだすことができるのではないでしょうか。

自己愛はしばしば自分自身にも見えなくなり、知らぬ間にあまたの愛情や憎悪を孕(はら)み、養い、育てる。しかも実に醜怪きわまる愛や憎しみを作るから、産み落とした時にわが子とわからず、もしくはわが子と認める決心がつかない。自己愛を包み隠すこの夜陰から、自己愛が己れ自身について抱く滑稽(こっけい)な思い込みが生まれる。己れに関する過誤、無知、粗野、愚味がそこから出てくる。

自己愛の趣向こそが対象を上等に思わせる値段であり対象を美化する化粧である、つまり自己愛は自分自身を追いかけているのであって、自分に好ましい物を追求している時も、自分の好みそのものを追求しているのだ、ということが出来よう。

(ラ・ロシュフコー箴言集「削除された箴言MS1」より抜粋)

エンジニア
まぁ、確かに。デザイナーがいわば「身体の化け物」であるとするならば、エンジニアとは「体の無いユーレイ」のようなものなのかもしれませんね。デザイナーとエンジニアが切磋琢磨する背景には、何か心理的なエネルギーによる大きな働きがあるということは、薄々感じてはおりました。しかしそうなると、科学技術の発展を考える上で大変気になりますのは、「エンジニアリングとデザインの融合」という観点です。
といいますのも、エンジニアリングというのは、デザインの助け無くして発展することができないからです。未だに多くの人が認識していませんが、残念ながら科学技術というのは、人間そのものについては何も説明できないのです。何百もの発明をしてきた私が言うのもおかしな話しですが、こと人間の感情や感性については、いくら科学技術が進化したところで、未来永劫、これっぽっちも理解できないのではないかと思っています。エンジニアが人間的で肉体的な関わり合いについて無興味でいるのは、結局のところ科学技術は人間について全く説明が出来ないから、という理由によるのかもしれません。