2011年1月11日火曜日

心理学者との対話(その2)~自己複製するデザイナー




上からチャールズ・レニー・マッキントッシュ氏の顔と、
その代表的作品群。ハンス・J・ウェグナー氏の顔とその作品。


デザイナー
「デザイナー自身の美意識」がどのように学習されるのか?というご質問ですが。
デザイナーというのは、物に形を与える作業について、人並み外れた執着と自信を持っています。ですから一般の人が受動的に漫然と美を学ぶのに対して、より「積極的・能動的に美を学ぶ」ような傾向にあるのではないでしょうか。
もちろんこれは一般論であって、デザイナーの中にも美に無頓着な人が居るでしょうし、トーマスさんのように、エンジニアの中でも美的表現に優れた人も居ます。

エンジニア
正直にいって、デザイナーの「美意識」と、エンジニアの「美意識」というのは、どこか違うような気がします。
うまく言えないのですが、エンジニアは「仕掛けの道理が通っていて説明可能なもの」「複雑な創造物でありながら、その思想が明快でシンプルなこと」に対して美しいと感じるのです。多くのデザイナーが、良く出来た蒸気機関や電子機器をみたときに「美しい」と言いますが、それはあくまでも表面的な外観について語っているのだと思います。エンジニアはどちらかというと、表現物の内面で行われている動作や、それが設計された成り立ち、その背後に潜む思想のようなものに共感する傾向にあります。そういった「美しさ」を、自分も追求したいという気持ちがあります。

心理学者
お二人とも、とても正直なご意見をありがとうございます。
まずはアッキレさんの仰った「デザイナーは積極的・能動的に美を学ぶ」という言葉を拾ってみたいと思います。これは、具体的にはどのようなことを意味しているのでしょうか?ぜひ、聴講者の皆さんにも考えていただきたいのです。
サルではなくて人間が、ですよ。それも、造形意欲に燃えるデザイナーの金の卵たる赤ん坊は、いったいどのようにして積極的・能動的に美を学んでいるというのでしょうか?会場の方々はどのように思われますか?

会場から
(次の意見が出る)
・母親が抱きしめること
・自宅のインテリア
・鏡
・父親が叱ること
・友達と遊ぶこと
・兄弟や親族
・離乳食
 :

心理学者
みなさん、貴重なご意見をありがとうございました。これらの意見はどれも的を射ていると思うのです。といいますのも、みなさんは「三つ子の魂百まで」という諺をご存じですよね?そして経験的にも感じていらっしゃると思います。一人の人間が一生を過ごす上で、その本質的な性格というのは、三歳までの経験によって多くが与えられていることが、精神分析学の立場からも良くわかっています。
フランスにモーリス・メルロー=ポンティという哲学者が居りまして、このところ面白いことを言っています。人は幼児期に鏡を通じて自らの「顔」を学習するというのです。この鏡像と呼ばれる現象の中に、やがて「ナルシシズム(自己愛)」という形で展開される「自己観察の態度」への可能性が開かれるのだそうです。
私は長年、アーティストやデザイナーといったいわば芸術的な才能のある職業の人々について、精神分析学的な立場から見つめてきました。あまり詳しくお話しするつもりはありませんが、簡単に言えば、芸術作品というのは、作者の内部に抑圧されたナルシシズムや身体への愛着というものが、現実的な条件を得て「代用形成」されたものだと説明できるのです。

デザイナー
確かに、鏡によって人間の中にナルシシズム的な感情が生まれるのは理解できます。己の美しさに溺れたナルキックス神話を持ち出すまでも無いでしょうね。
でもちょっと待ってくださいよ。
そうなるとデザイナーというのは、鏡を通じて学んだ自分の顔を、デザインという仕事において「代用形成」することで、ナルシシズムを満足している人々だということになりますね?となると、デザイナーの作る製品というのは、必然的にそのデザイナーの「顔」に似ているということになりませんか?

心理学者
仰るとおりだと思います。顔そのものというよりは、そのデザイナーの顔のパーツや、それらのパーツを構成する関係性、たとえば目と目の感覚、口の大きさ、骨格などの特徴が、知らず知らずのうちに作品に反映される可能性が強いでしょう。
北欧のハンス・J・ウェグナー氏の作品を見る限り、自らの大きな「鼻」に何らかの思い入れをお持ちのようですし、スコットランドのチャールズ・レニー・マッキントッシュ氏は「面長で左右対称であること」を自らの作品に反映しているように思います。ちなみに私はどちらの作品も大好きですけれどもね。
こうした代用形成はむしろ、アッキレさんのほうが日常的に経験されているのではないでしょうか?

デザイナーの自己複製、そのヒエラルキーは
横軸によって評価されてしまうのだろうか?

デザイナー
デザイナーやイラストレーターの間では、スケッチやクレイモデルが、どことなくそのデザイナーに似る、という事は、経験的に知られています。しかしそれが自分の無意識の反映であり、ナルシシズムの表現であるということになると、私はすこしばかり恐怖を覚えます。
といいますのも、産業革命の恩恵によってデザイナーは、自分の作品を大量に複製する事が可能になりました。そして今後、製造機器の進化によって、一人のデザイナーがつくりだす事のできる工業製品の生産量は爆発的に増加するでしょう。そうすると、何が起こるでしょうか?
そのデザイナーの価値というのは、少なくとも資本主義社会においては、消費や生産の「量」によって定められる事になると思うのです。つまりデザイナーたちは製品を通じて自らを自己複製し、そのデザイナーの良し悪しというのは、複製された自己の数によって評価されることになるでしょう。そうした状況は野蛮であり、なんだか私にとっては身の毛のよだつ感じがするのです。